あなたの人生をきっと豊かにする手紙社リスト。24回目となる音楽編は、『ぢゃないほう歌謡曲』というテーマでお届けします! ぢゃないほう? 主役ぢゃない……有名な方ぢゃない……本当はそっちぢゃない……、さまざまな解釈で手紙社の部員と堀家教授が選んだ『ぢゃないほう歌謡曲』は?






手紙社部員の「ぢゃないほう歌謡曲」10選リスト



1.〈なみだの操〉殿さまキングス(1973)
 作詞/千家和也,作曲/彩木雅夫,編曲/藤田はじめ


歴代ミリオンセラーの上位曲が、ぴんからトリオの「女のみち」。こちらはぢゃないほうの「なみだの操」。両方ともメインボーカルの名前に「宮」って付くし、おっさんが、女子の心を歌っているド演歌で、なんだかごっちゃになります。加藤茶が歌うのが「女のみち」。ちびまるこちゃんが歌うのが「なみだの操」。どちらもウブ(自称)で健気な女性が失恋する歌ですが、よく見ると歌詞の内容は違います。「なみだの操」は、男性に振られて、死にたい&暮らしていけないとすがっています。「女のみち」は、もう少し時間が経過しているよう。瞼を閉じると男性の残像が浮かぶのですが、それを振り切って、「幸せをつかむ!」と決意して、坂道であろうと前を向いています。つまり「なみだの操」は、「失恋して、まだ心の整理がついていないほう」ということでどうでしょう?
(手芸部部長)



2.〈トライアングル・ラブレター〉トライアングル(1978)
 作詞/島武実,作曲・編曲/穂口雄右



「8時だヨ!全員集合」に出てくる、キャンディーズっぽいけどキャンディーズぢゃない3人組アイドル、それがトライアングル。「キャンディーズの解散表明後、『キャンディーズの妹分』としてキャンディーズJrという名前で結成されたが、熱狂的なキャンディーズファンの猛反発を受け、トライアングルに改名」(Wikipediaより)。今だったら、アイドルグループがメンバーチェンジを繰り返して、グループそのものを何十年も継続させることが当たり前になりましたが、当時はそんな仕組みはなかったですし、Jrという下部制度もなかったですね。 衣装はキャンディースと同じ白いベビードールで、サウンドも、サビで裏声のハモリになるとか、かなりキャンディーズっぽいです。ただ、メンバーの個性があまりはっきりしていないので、そこは残念な感じがします。もっと違う路線を狙えば人気が出たのでしょうか?このグループがイマイチだったのは、キャンディーズが偉大過ぎたという裏返しかもしれません。
(手芸部部長)



3.〈ふりむけば愛〉三浦友和(1978)
 作詞・作曲/小椋佳,編曲/松任谷正隆



ちびまる子ちゃん世代にとってゴールデンコンビといえば、百恵ちゃんと友和さん。二人のドラマや映画、CMに流れる歌は、ほとんど百恵ちゃんが歌っておりますが、映画「ふりむけば愛」の主題歌は、百恵ちゃんぢゃないほうの友和さんが歌っています。小椋佳さん作詞作曲の優しく、心に光をくれるような楽曲は、友和さんにピッタリです。明るい歌にもどこか影を感じさせる百恵ちゃんが当時私たちをキュンとさせたのに対して、友和さんの持つ誠実さはお母さん世代をギュンとさせたようです。その歌声に、 当時私の母もメロメロになっておりました。友和さんは忌野清志郎さんと高校の同級生だったそうで、一時は音楽の道へ進もうとしたとのこと。そうなっていたら、百恵友和コンビは誕生することなく、百恵ちゃんがマイクを置いて去っていくあの伝説のステージもなかったのかもしれませんね。
(KYOKO@かき氷)



4.〈終章(エピローグ)〉チャゲ&飛鳥(1980)
 作詞/チャゲ,作曲/チャゲ,田北賢次,編曲/瀬尾一三



今回のテーマのヒントとして、ASKAではなくてCHAGEとあったので、Chageさんの「終章(エピローグ)」を。ギターを抱えて歌うチャゲ&飛鳥のデビュー曲「ひとり咲き」を聴いた時、「それぞれの個性が強いな」と思いつつ、アルバム「風舞」「熱風」と購入してハマっていました。「終章(エピローグ)」は「風舞」に収録されていて、記憶に残る名曲。「ありきたりな別れはしたくなかったの…」としっとり歌い上げるこの曲。でも、冷静になってこのフレーズをなぞると、男性への未練が残る女性の感情の怖さを少し感じるのは、気のせいでしょうか?
(あさ)



5.〈檸檬〉岩崎宏美(1982)
 作詞/松本隆,作曲/鈴木キサブロー,編曲/萩田光雄




レモンというと、米津玄師の「Lemon」を連想しますが、岩崎宏美の「檸檬」という可憐な曲もありました。久しぶりに聴いたら、ちょっとレトロな雰囲気もあり、サビのリフレインが耳に残って懐かしいです。レモンと聞くと酸っぱさから、何か切ない感じがしますが、青いレモンというと、さらに甘酸っぱい青春というイメージが浮かびます。2番で「青い青いレモンに くちびるよせて泣いたの」という歌詞があり、リンゴの唄「赤いリンゴにくちびる寄せて~」のオマージュかなと。
(はたの@館長)



6.〈スタンダード・ナンバー〉 南佳孝(1984)
 作詞/松本隆,作曲/南佳孝,編曲/大村雅朗




薬師丸ひろ子「メイン・テーマ」ぢゃないほうの南佳孝「スタンダード・ナンバー」。どちらも名曲ですが、「メイン・テーマ」の方を先に知ったので。同じ曲で、違う歌詞。「20年も生きて来た」女の子の真っ直ぐな恋心を描いた「メイン・テーマ」と、それをたじろぎつつ受け止める、年上なのだろう男性の、ちょっと眩しそうに見ている感じが素敵な「スタンダード・ナンバー」。どちらか一方の曲しか知らなくても十分に魅力的な2つの曲なのに、組み合わせたらもっと完璧になる。1つの世界ができあがる感じがとても好きです。
(ゆめ)



7.〈雨上がりのサンジェルマン〉岡村有希子(1984)
 作詞/秋元康,作曲/岸正之,編曲/新川博



今回のお題は難しいと頭を悩ませつつ、候補曲出しをしていく中でふと浮かんだのが岡村有希子さん。そういえば岡田有希子さんと似た名前のアイドルがいたような気がすると思い、検索したら出てきました。中学時代に明星を買っていて、付録についてくるヤンソン(Young Song)という歌本の中で新曲紹介としてこの曲があがっていたこと。岡田有希子さんと名前が似てるよなと思った記憶があります。実際に一字違いの芸名でよく間違えられていたそうです。当時は岡田有希子さんの後から出てきたと思っていたのですが、よくよく調べるとデビューは1984年1月25日。岡田有希子さんは1984年4月21日で岡村さんのほうが先だったのですね。当時の堀越の同級生には岡田有希子さんのほか南野陽子さん、いしのようこさん、倉沢淳美さん(元わらべ)、長山洋子さんという顔ぶれがすごいです。現在は渡辺かえ名義で故郷の山口県下関市でラジオパーソナリティや結婚式の司会をされているそうです。
(れでぃけっと)



8.〈君は1000%〉1986 OMEGA TRIBE(1986)
 作詞/有川正沙子,作曲/和泉常寛,編曲/新川博




杉山清貴&オメガトライブのアルバム(ジャケット写真が素敵!)を購入するほど好きだったのですが、いつのまにかボーカルがカルロス・トシキさんに替わっていました。1986オメガトライブ、カルロス・トシキ&オメガトライブとしての活動は、杉山清貴さんの時よりさらに短いのですが、杉山清貴さんとはまた違った声の魅力があります。この声だから「君は1000%~」が“きゅん!”とします。オメガトライブとはバンド名かと思っていたのですが、どうやらそうではなくプロジェクト名だそうです。
(あさ)



9.〈夜空ノムコウ〉川村結花(1998)
 作詞/スガシカオ,作曲/川村結花,編曲/深澤秀行,川村結花




「夜空ノムコウ」はスガシカオちゃんバージョンが知られているかと思いますが、実はこの曲、作詞がスガシカオちゃん・作曲が川村結花さんというシンガーソングライターによるもので、作詞作曲したそれぞれがアルバムやライブで歌っています。このパターンは珍しいのではないでしょうか。SMAP解散を受けてシカオちゃんはこの曲を封印するも先日テレビの音楽番組で披露し、川村さんは歌い続けるとインタビューで答えたそうです。どんな形であれ、これからもこの曲は残り続けるでしょう。そうあって欲しいと願います。
(れでぃけっと)



10.〈桜〉河口恭吾(2003)
 作詞・作曲/河口恭吾,編曲/武藤良明




この季節になると桜をテーマにした曲がかかるなとふと頭をよぎり直太郎の桜は良く聞くけど他にも色々あったなぁ、誰が歌ってたかと検索したところ沢山出て来ました。その中でソロアーティスト繋がりで河口恭吾の楽曲を選ばせて頂きました!
(龍姫<たつき>)






ぢゃないほう歌謡曲


うなずく
たとえそれがどのような集団であれ、人間が複数集まれば、彼ら彼女らのあいだでは自然と声高なキャラクターが存在感を発揮するものです。もちろんこの場合、声高とは、なにも音声の物理的な大きさばかりを意味するわけではありません。風貌や性格を含め、なにがしかのキャッチーな、換言すればうるさく厚かましいさまざまな要素が、ここでいうキャラクターの声高さを構成しえます。

お笑い芸人であればなおさらで、というのも彼ら彼女らにとっては、いかに自らのうちに他の同業者とは異なる独特のキャラクターを確立し、これをお茶の間に浸透させ、認識させるか、その如何にこそ、芸人としての成功の可否がかかっているからです。

ただし、たとえばそれがボケとツッコミからなる漫才コンビであるとして、どれほど特異なものであろうと両者が共通の特徴を備えていたとしたら、その声高さは互いを打ち消しあい、ここで両者の存在性は確実に相殺されることになります。

両者が眼鏡をかけるよりも、どちらかのみが眼鏡をかけているほうが、眼鏡をかけている側とかけていない側とを識別しやすくなります。つまりそこでは眼鏡は、コンビのふたりを相対化し、区別するための記号にほかなりません。他方で、そのようなキャッチーなフック、要するにツカミの機能をあてにして眼鏡を利用するとき、あたりを見回せば同じような風体のふたり組に溢れ、コンビとしての特徴はほとんどなきに等しいでしょう。

おぎやはぎの登場は、こうした既存の枠組みを否定し、あるいはむしろ逆手にとって、ボケとツッコミの双方がともに眼鏡をかけたコンビとして、小木/矢作ではなくおぎやはぎのキャラクターを確立し、彼らの笑いの新しさを可視化してみせたわけです。

ところで、ツービートにおけるビートたけしやB&Bにおける島田洋七、島田紳助・松本竜介における島田紳助は、まさに圧倒的な才気をともなう強烈なキャラクターをもって、かつて1980年代初頭のいわゆる漫才ブームを牽引したその立役者でした。そして彼らとコンビを組み、彼らにツッコむことで彼らのボケを鮮明にしたビートきよし、島田洋八、松本竜介は、慎ましく彼らの日陰に身を置き、彼らを引き立てることにかろうじてその存在意義を見出し、また見出されていたはずです。

たけしぢゃないほうのツービート、洋七ぢゃないほうのB&B、紳助ぢゃないほうの紳竜。これが、もっとも単純な彼らの定義でした。このような、ボケ役の相方に比していかにも存在感の希薄なツッコミ役の彼らにも、脚光を浴びる瞬間が訪れます。相方の才気にもっぱらうなずくばかりの彼らの無芸さを“うなずきトリオ”の名のもとにまとめ、キャラクター化してみせたのは、〈うなずきマーチ〉(1982)を実現した大瀧詠一の功績です。




そうした、コンビ芸人やお笑いグループのうち印象の薄い人物、目立たず存在感の希薄なほうに照準をあわせ、見逃されがちな彼らの本当の面白さを積極的に拾いあげる観点は、のちに『アメトーーク!』にも援用され、“○○じゃない方芸人”が企画化されるところとなります。



変わる
歌謡曲においても同様の事態が考慮されえます。

フォーク式のデュオのうち、作詞や作曲を担当したほうとそうぢゃないほう、ロック式のバンドのうち、最前列中央で歌唱するほうとそうぢゃないほう、等々。

たとえばチャゲ&飛鳥の飛鳥ぢゃないほう。しかしチャゲは、石川優子とのデュエットで〈ふたりの愛ランド〉(1984)をヒットさせてもいます。




〈セシル〉(1982)のクリスタルキングにあって主旋律を負担したのは、ドスの効いたムッシュ吉崎の声でも、パンチの効いた田中正之の高音でもありません。〈大都会〉(1979)のあの二本立てヴォーカルぢゃないほうの、ギター奏者の山下三智夫による頼りなさげな歌唱でした。




甲斐バンドが発表した〈ビューティフル・エネルギー〉(1980)で聞かれるのも、耳になじんだ甲斐よしひろの歌唱ぢゃないほうの、ドラムスの松藤英男によるそれです。




もちろん、であるほうとぢゃないほうの関係性が事後的に転倒する場合もあります。当初はHGの下品でキャッチーなキャラクターに一方的に依存していたお笑いコンビのレイザーラモンですが、かつて彼に寄生していたRGのキャラクターが現在では相方を凌駕し、コンビの魅力を増幅させています。

オードリーの若林正恭やはらいちの岩井勇気など、本来はキャッチーな相方を前景化させるためのネタを執筆すべくコンビの裏方に徹していたぢゃないほう芸人が、いまやその才気を舞台上で存分に発揮させています。

チューリップによる最初のヒット曲〈心の旅〉(1973)は、それまで歌唱を担当していた財津和夫がその座を姫野達也に譲ることによって、財津ぢゃないほうの歌声をもって成立した楽曲でした。〈Romanticが止まらない〉(1985)をヒットさせたのも、渡辺英樹や関口誠人ぢゃないほうの笠浩二を歌唱に据えた、Coconut BoysぢゃないほうのC-C-Bです。






であるものがぢゃないほうへと転倒すること、ぢゃないものがであるほうへと移行すること。そこには変化があります。

尾崎紀世彦による〈また逢う日まで〉(1971)もやはり、変化することによって広く人口に膾炙しえた楽曲です。もともとは筒美京平に依頼され、やなせたかしの歌詞をあてがわれたCMソングだったこの旋律は、のちに阿久悠を作詞に迎え、町田義人のズー・ニー・ヴーにより〈ひとりの悲しみ〉(1970)として吹き込まれています。けれどヒットには至らなかったこの旋律をめぐって、再び阿久悠が別の歌詞をあつらえ、歌い手も尾崎紀世彦に変えて、ついに〈また逢う日まで〉となってレコード大賞をも獲得しました。




大瀧詠一の〈それはぼくぢゃないよ〉(1972)は、まだはっぴいえんどに在籍していた彼が単独で発表したはじめてのアルバム盤《大瀧詠一》に収録されています。実際にはこれは、その最初のシングル盤〈恋の汽車ポッポ〉(1971)のB面に収録されていた〈それはぼくじゃないよ〉とほとんど同一の楽曲です。




にもかかわらず、この両曲には微妙な相違点があります。松本隆による歌詞が大瀧による歌唱を吹き込む直前に持ち込まれたために、譜割りをとおして言葉の響きを吟味する余裕が大瀧には許されず、ようやくアルバム盤の収録にあたって満足のいく歌唱が吹き込みなおされたからです。そのぶん歌唱の完成度はこちらが圧倒的で、それどころか大瀧本人も、歌い手としての彼の業績のなかでこれが最高のできと自負しています。

したがって、アルバムに収録された〈それはぼくぢゃないよ〉こそが完成版であり、〈それはぼくじゃないよ〉はそのぢゃないほう歌謡曲といえなくもありません。



似る
しかしここで真に重要なこと、それは、〈それはぼくじゃないよ〉から〈それはぼくぢゃないよ〉へと移行するあいだに生じた変化の次第です。シングル版からアルバム版への移行にともなって、大瀧詠一の歌唱が安定したことはもちろん、歌詞における「それはただの風さ」の文言が「あれはただの風さ」へと、また「ぼくじゃないよ」の表記も「ぼくぢゃないよ」へと変更されています。

とりわけ「それはただの風さ」から「あれはただの風さ」への文言の変更は、この楽曲が象る世界観をより広く、いっそう深い経験とします。

ここで主語となる指示代名詞が「それ」から「あれ」へと変更された理由としては、ちょうどその直前に、シングル版では「それはぼくじゃないよ」、アルバム版では「それはぼくぢゃないよ」の文言が先行して配置されており、シングル版が「それ」の使用を重複させてしまっていたからだと考えられます。

ここで「それは」が参照しているのは、「まぶしい光のなかから のぞきこんでいるのは」という語句そのものです。シングル版の場合、「それ」が「ぼく」であることを否定したうえで「それ」を「ただの風」のせいと落着させ、すべては単なる言葉のあいだの参照関係のうちに整然と秩序づけられます。管理することの困難なイメージの生々しさが息づく外部に曝されることのないまま、言語が自己言及的に完結した表現といえるかもしれません。

なるほど、アルバム版の場合も、歌詞の言葉はいったん「それ」の語をもって語句そのものを参照したうえで、けれど「あれ」の 語を介して、「ただの風」が確かに「まぶしい光のなかから のぞきこんでいる」生々しい様子を、まさしくその光景を目撃した「ぼく」が、人差し指で「あれ」と指示して聴き手に共有を促し、その脳裏への活写を唆すのです。

〈それはぼくじゃないよ〉は、このようにして生成論的に〈それはぼくぢゃないよ〉ぢゃないほうに措定されます。

ところで、水野美紀と水野真紀はどちらがぢゃないほうで、酒井美紀と坂井真紀とではどちらがぢゃないほうなのでしょうか。あるいは、水野美紀ぢゃないほうとは、水野真紀なのでしょうか、それとも酒井美紀なのでしょうか。ただ名前の字面や音韻が似てしまったことに起因するこの混乱をめぐって、なんら彼女たちに責任はありません。

〈キャンパススケッチ〉(1979)でデビューした沢田聖子は、だが遅れて〈裸足の季節〉(1980)でデビューした松田聖子がつづく〈青い珊瑚礁〉(1980)をヒットさせ、女性アイドルの頂点まで登りつめていくなか、ゆえんなきうしろめたさを不当にも背負わされてしまったように思われます。〈ファースト・デイト〉(1984)による岡田有希子の登場とその悲劇は、〈哀しみのレイン・トリー〉(1984)の岡村有希子に、やはり沢田聖子が感じたものと同様の苦味を自覚させたはずです。






当の本人にはいかなる罪のいわれもないがゆえの、ぢゃないほうの烙印の痛みと傷跡。

どこかのどかに長調で未練を謳う、宮史郎とぴんからトリオによる〈女のみち〉(1972)と、押しつけがましい短調で未練を唸る殿さまキングスの〈なみだの操〉(1973)とのあいだで、実際の曲調の明瞭な乖離にもかかわらず私たちがこれらを混同してしまうとすれば、それは、もはや私たちが往時の歌謡曲の聴衆ぢゃないからにちがいありません。ぢゃないほうの聴衆という烙印、その痛みと傷跡とともに、いま私たちは歌謡曲と対峙せずにはいられないのです。





堀家教授による、私の「ぢゃないほう歌謡曲」10選リスト



1.〈夢でいいから〉いしだあゆみ(1968)
 作詞/林春生,作曲・編曲/筒美京平




〈サザエさん〉ぢゃないほうの林春生ー筒美京平コンビの提供作品。女優業と歌手業を並行させていたいしだあゆみが、歌手業に集中すべくレコード会社を移籍して発表した最初のシングル盤〈太陽は泣いている〉のB面曲であり、当時はフジテレビのディレクターだった林春生の作詞家デビュー作。この発表の半年後に、筒美京平は橋本淳とのコンビで〈ブルー・ライト・ヨコハマ〉を彼女に提供し、これが彼の出世作ともなる。林と、やはりフジテレビのディレクター出身だったすぎやまこういちの弟子に相当する筒美とが〈サザエさん〉で協働することは、だから自然な流れともいえる。いしだによるオリジナル版のほか、南沙織や小林麻美、浅田美代子など、いわば筒美京平スクールとでも呼ぶべき女性アイドル陣がこぞってアルバム盤でカヴァーしており、いずれもそれぞれのキャラクターが的確に反映された好録音である。 



2.〈ひとりの悲しみ〉ズー・ニー・ヴー(1970)
 作詞/阿久悠,作曲・編曲/筒美京平



〈また逢う日まで〉ぢゃないほうの“また逢う日まで”。当初はCMソングとして制作され、不採用となっていた筒美京平の旋律に阿久悠が歌詞をつけ、〈白い珊瑚礁〉のヒットのあったズー・ニー・ヴーによってレコード化された。ヒットには結びつかなかったものの、制作者側の熱意で阿久悠があらためて別の歌詞をあてがい、ズー・ニー・ヴーのヴォーカルだった町田義人と声質の近い、しかし声量はさらに大きい尾崎紀世彦によって、ほとんどアレンジを変えることなく吹き込まれた盤が〈また逢う日まで〉として知られることになる。



3.〈ノー・ノー・ボーイ〉かまやつひろし,福沢エミ(1970)
 作詞/田辺昭知,作曲・編曲/かまやつひろし



マチャアキぢゃないほうの元ザ・スパイダースのメンバー作品。ザ・スパイダースの演奏ですでにシングル盤として発表されていた自作曲を、ほとんどの楽器パートをかまやつひろし自身が演奏し、多重録音した自宅録音アルバム《ムッシュー/かまやつひろしの世界》にセルフ・カヴァーのかたちで収録。歌詞における女性の台詞に相当する文言を歌う女声は、福沢諭吉の曽孫であり、六本木のレストラン「キャンティ」人脈の福沢エミのもの。彼女に限らず、このアルバムにはこの人脈からかまやつの多くの友人がゲスト参加している。



4.〈それはぼくじゃないよ〉大瀧詠一(1971)
 作詞/松本隆,作曲/大瀧詠一,編曲/ちぇるしい




〈それはぼくぢゃないよ〉ぢゃないほうの“それはぼくぢゃないよ”。はっぴいえんど在籍中の大瀧詠一がソロで発表した最初のシングル盤〈恋の汽車ポッポ〉のB面に収録。松本隆による歌詞がヴォーカルを吹き込む直前に仕上がり、言葉の響きを譜割りに落とし込む余裕がなかったことから、アルバム盤《大瀧詠一》に収録する際にあらためてヴォーカルを吹き込みなおした版が〈それはぼくぢゃないよ〉となる。これにあわせて歌詞における「それはただの風さ」の文言が「あれはただの風さ」へと、また「ぼくじゃないよ」の表記が「ぼくぢゃないよ」へと変更されている。



5.〈愛の航跡〉山岡英二(1973)
 作詞/能勢英男,作曲/米山正夫,編曲/小杉任三



吉幾三ぢゃないほうの鎌田善人。アイドル歌手としてのデビュー作品となった〈恋人は君ひとり〉のB面に収録。どちらかといえばヒデキ成分の強いA面曲に対して、こちらはどちらかといえばヒロミ成分が強めではあるが、いずれものちの吉幾三を思わせる民謡由来の演歌調を備えるあたりはむしろゴロー的か。この路線がどこまで本気だったのか判別できない証左として、A面曲の冒頭ではのちのダチョウ倶楽部のギャグを予告するような一声を確認できる。



6.〈黄昏色に心をそめて〉吉田正美と茶坊主(1976)
 作詞/赤間美季子,作曲・編曲/吉田正美




さだぢゃないほうのグレープ。さだまさしのソロ活動がグレープの風味の延長上で成功した一方で、吉田正美は、バンドの体裁でフュージョンへと傾向していく。ここでの表現は、さらに茶坊主を解散した彼が吉田政美の名義のもと単独で活動をはじめるときにシティ・ポップスを志向する基盤となる。このあたり、かぐや姫から風の結成を経由してひとりで歌いはじめた伊勢正三の関心にも重なるだろう。



7.〈Hong Kong Night Sight〉松任谷正隆(1977)
 作詞/松任谷由実,作曲・編曲/松任谷正隆



由実ぢゃないほうの松任谷。正隆の唯一のアルバム盤《夜の旅人》に収録。結婚からほどない時期の彼のこのアルバム盤や、松任谷由実の最初のアルバム盤《紅雀》を一聴すれば、松任谷夫妻がその時期にボッサ・ノーヴァをはじめとするラテン音楽に傾倒していたことは瞭然である。それは当時の細野晴臣が展開していた音楽による世界旅行の響きを踏襲するものでもあり、たとえばのちに由実もカヴァーしたこの楽曲がほかならない「Hong Kong」の夜を謳っていることにもそうした文脈を確認できよう。



8.〈シオン〉沢田聖子(1979)
 作詞・作曲/イルカ,編曲/木田高介




松田聖子ぢゃないほうの_田聖子。イルカの妹分として本名でデビューしたにもかかわらず、地道に活動しているあいだに登場した松田聖子が瞬くうちにスターとなり、割を食うかたちとなった沢田聖子だが、いきものがかりの吉岡聖恵にも似た、しかしより澄んで抜けのいい声質をもって、いくつもの佳曲を吹き込んでいる。いかにも素朴で親しみやすい女子大生然とした風貌ながら、かといって竹内まりやにもなれなかった彼女には、やはり時代が味方しなかったということか。



9.〈松田の子守唄〉SOUTHERN ALL STARS(1980)
 作詞・作曲/桑田佳祐,編曲/SOUTHERN ALL STARS




桑田家ぢゃないほうのサザンのヴォーカル。稲垣潤一やC-C-Bなど、ドラムスを叩きながら歌唱する歌い手は散見するが、松田弘もそのひとり。SOUTHERN ALL STARS名義により発表された《TINY BUBBLES》に所収。高音に伸びるその歌声は、桑田佳祐の嗄れ声とは明確に異なる質をこのバンドに一定の可能性として担保し、〈松田の子守唄〉はその優れた実現である。これが桑田佳祐による歌唱を前提した場合、おそらくサビの旋律はもう少し下の音域をたどり、他方で原由子のコーラスはもう少し上の音域で奏でられることになっただろう。



10.〈オレンジ・エアメール・スペシャル〉久保田早紀(1981)
 作詞/山川啓介,作曲/久保田早紀,編曲/萩田光雄




〈異邦人〉ぢゃないほうの久保田早紀の才能。仮に久保田早紀が〈異邦人〉だけのいわゆる一発屋であるとして、萩田光雄はその責を自身による編曲のゆえかと反省してみせるほどに、この楽曲の、とりわけそのイントロの衝撃は、日本の大衆音楽史に決定的な痕跡を刻んだ。こうした強固な傷跡に抗うように、久保田早紀は〈オレンジ・エアメール・スペシャル〉を公表する。前年に太田裕美の〈南風ーSOUTH WINDー〉が負担したCMのタイアップを受け継いだそれは、あたかも近藤真彦における〈スニーカーぶる〜す〉と〈ブルージーンズ メモリー〉のあいだの関係性のように、先行曲とまったく異なる楽曲でありながら寸分たがわない輪郭の心象を響かせる。そのような事情もあってか、近田春夫が当時この楽曲評として彼女のことを「ひょっとすると京平さんのように器用な作曲家になるかもしれない」と指摘していたことは、まさしく慧眼である。



番外_1.〈うなずきマーチ〉うなずきトリオ(1982)
 作詞・作曲/大瀧詠一,編曲/多羅尾伴内



ビートたけしぢゃないほうのツービート、島田洋七ぢゃないほうのB&B、島田紳助ぢゃないほうの島田紳助・松本竜介。それが、ビートきよし、島田洋八、松本竜介の定義だった。ぢゃないほうであることがはじめて積極的にキャラクター化されたものの、結局のところここでも彼らは大瀧詠一ぢゃないほうの“うなずきマーチ”だったにすぎず、それゆえに番外とした。



番外_2.〈ゆ・れ・て湘南〉石川秀美(1982)
 作詞/松本隆,作曲/小田裕一郎,編曲/鈴木茂



〈ゆ・れ・て湘南〉ぢゃないほうの〈ゆ・れ・て湘南〉。馬飼野康二の編曲によるシングル盤での録音はよく知られるが、石川秀美の最初のアルバム盤《妖精》への収録にあたり、デビュー同期で競合相手のひとりだった堀ちえみ陣営で音楽プロデュースを担当していた鈴木茂を編曲に起用。作詞の松本隆からの推挙があったのかもしれない。その全篇をとおして響くエレキギターのいくぶん激しめに歪んだ音は、始終クリーンなトーンで貫徹される堀ちえみの場合との対照を意識したものとも考えられよう。シングル版よりも半音下のEmで開始された調性は最後のサビの繰り返しで半音上に移調し、ようやくそれに追いつく。ただしぢゃない程度をめぐる意外性の度合いが低いため番外とした。








文:堀家敬嗣(山口大学国際総合科学部教授)
興味の中心は「湘南」。大学入学のため上京し、のちの手紙社社長と出会って35年。そのころから転々と「湘南」各地に居住。職に就き、いったん「湘南」を離れるも、なぜか手紙社設立と機を合わせるように、再び「湘南」に。以後、時代をさきどる二拠点生活に突入。いつもイメージの正体について思案中。