あなたの人生をきっと豊かにする手紙社リスト。10回目となる音楽編のテーマは、「チョコレートとCM」。チョコレートのCMと音楽って、甘〜い熱愛関係にありますよね。そういえば、かつては熱愛を噂されるアイドルふたりが出演していた時代もありましたね。さあ、毎回予想がつかない堀家教授の講義、まもなく開講です!






チョコとバレンタインとCMと私と歌謡曲


ギブミー、チョコレート
太平洋戦争が終戦した直後の日本において、チョコレートとは、ガムやタバコとともに、GHQの中枢であったアメリカ的な民主主義を、自由主義を、資本主義を、つまるところその国力を物質として表現したメディアでした(*1)。進駐軍のジープの後を追うなどしてそれをねだる子どもたちを喜ばせるために、軍関係者の専門の売店であるPX、すなわち米軍酒保から個人で調達し、これを配っていた兵士もいたようです(*2)。また、そうして入手された物資は闇市で転売されることもあったといいます(*3)。

美空ひばりの〈東京キッド〉(1950)は、焼け野原からの復興の途上にある東京の「ビルの屋根」も「マンホール」もわが庭のごとく、たとえ「金はひとつも なくつても」なお「夢」を「ポッケ」にたくましく生きる戦災孤児の姿を歌っています。「ヂャズ」で「スイング」し、「ジタバーグ」を「おどる」彼らが「チュウインガム」や「フランス香水」とともに誇示するのは、ほかでもない「チョコレート」です。

この楽曲は、松竹が製作し斎藤寅次郎が監督した映画作品『東京キッド』の主題歌でした。ただし、ここで主演した美空ひばりの役柄は、戦災孤児ではなく、水島光代の母と死に別れ、花菱アチャコの父に反発して彼のもとから逃げだした遺児という設定です。 その寝顔が導く「夢」のシークェンスでは、彼女はハワイで敢行されたロケーション撮影に師匠格の川田晴久とともにのぞんでいます。これを「夢」とみながら微笑する寝顔のショットに戻り、つづいて、東京と思しき街角の狭い通りで彼女が〈東京キッド〉を歌い、踊るシークェンスへとつながります。アメリカで実業家として成功し、妻子を迎えに日本に帰国していた父とようやく和解した美空ひばりの娘は、最後には彼とともに空路でアメリカへと発っていきます。

いまだサンフランシスコ講和条約は成立しておらず、アメリカ本土はもちろんハワイへの渡航さえままならないころでした。

とはいえ、出征者を家族にもつ敗戦国の家庭の子どものなかには、チョコレートを素直に手にとり、その向こうにアメリカを夢みることのできなかった複雑な心境が残っていたとしても、なんら不思議はありません(*4)。加えて、占領下で暮らすために甘受した生活には恥辱や卑屈の感情がともなうなど、終戦による解放は楽観的な高揚ばかりをもたらしたわけではないはずです(*5)。

ところで、チョコレートは、終戦直後の日本のそうした逸話に限らず、戦争や軍隊と深い関係があります。たとえばここで敗戦国となった日本においてさえ、陸海軍からの要請により南方の戦地で原料のカカオが調達され、森永製菓や明治製菓が現地でチョコレートを生産していたほか、そうしたカカオは日本国内にも輸送され、飛行機や潜水艦の操縦士のための覚醒食といったかたちで利用されていたようです(*6)。

チョコレートの原料であるカカオ豆は、抗酸化作用のあるポリフェノールや覚醒作用のあるテオブロミンを含んでいるうえ、栄養素としての油脂がその重量の半分を占めています。これをもとに、焙炒や磨砕の工程を経由してカカオマスが作られます。これを圧搾して脂肪分であるココア・バターから分離されたココア・ケーキをさらに粉砕すると、飲料となるココアの粉末ができます。また、カカオマスにココア・バターおよび砂糖やミルクなどを混合し、精錬されたものを温度調整ののち固形化した結果がチョコレートです(*7)。

要するに、カカオを原料とするココアやチョコレートは、簡便にして薬効も栄養価も期待できる滋養強壮の飲食料製品なのです。とりわけチョコレートについては、糖分や乳成分を足して嗅覚と味覚からより食欲に訴えるところとなったばかりでなく、エネルギー源としての効用も向上し、しかも固体であることによって携帯性にも優れています。このため、銃後の社会についてはもちろんのこと、戦線にある兵士たちへの配給食品としてチョコレートは欠かせないものとなったわけです(*8)。



チョコレートとバレンタインデー
輸入したココアを販売していた森永製菓が、カカオ豆をもとに国産のチョコレート製造に乗りだしたのは1918年とされ、その翌年にはミルクココアの製造にも着手していますが、ほどなく1926年には明治製菓もこれにつづきます(*9)。ここに江崎グリコ、不二家、ロッテを加えたあたりで、日本のチョコレート市場は多くを占められています(*10)。

そのチョコレート市場がもっとも活気づくのは、まちがいなくバレンタインデー商戦にあたってでしょう。周知のように、この日は、チョコレートの贈与を介して女性が男性に恋愛感情を告白できる年に一度きりの日と認識されているからです。

もちろん、恋愛感情の告白それ自体は、年中いつでも当人の決意次第で可能です。けれどこの日に限っては、チョコレートが恋愛感情の証として心の代理物となり、言葉に頼らずとも彼女たちの思いを的確に伝えることができます。ただしそのためには、送り手の側であれ受け手の側であれこの儀式の流儀が共同体の構成員にあらかじめ共有され、そうした意味作用が相応に機能する程度には土壌が耕されている必要はあるでしょう。

しかもその共有は、共同体の構成員のあいだで同一の流儀にもとづく贈与行為がこの日に限り集中することをもって、恋愛感情を行動に転換することへの個別的な躊躇を希薄化させるにちがいありません。

しばしば指摘されるように、日本におけるバレンタインデーのありようはかなり特異なものとされています。この特異さについては、贈与の内容がチョコレートに固定されていること、および贈与行為をめぐる主客の性別が一方通行的に固定されていることに起因するものと指摘されています(*11)。加えて、職場における贈与行為が常態化していることについても特異さの指摘はありますが、しかしおそらくそれは、こと職場のみならず、たとえば小学校から大学まで、学校や学級を舞台にして類似の傾向はうかがえるはずです。

とはいえ、本来の[Valentine’s Day]の起源もさほど明確ではないようです。

ひとまずそれは、古代ギリシア以来の冬至祭、つまり秋から冬に向かって次第に衰弱していく太陽に対して、新しい生命の萌芽を担保する力能の回復を、すなわち春の到来を祈る冬至の時期の祝祭に由縁するものと考えられています(*12)。クリスマスやカーニバル、ハロウィンなどもこうした系列に属します。とりわけ、古代ローマにおいて多産や豊穣を祈念する祝祭として2月15日に催されていたとされるルペルカリア祭は、バレンタインデーとのつながりを強く類推させるところでしょう(*13)。

のちにローマ帝国が弱体化していくなか、国教として採用されたキリスト教は、国家や皇帝といった世俗性からの権威の分離を進めて発展していきます。その過程で、カトリック的な倫理観に抵触するルペルカリア祭を禁止するにあたり、この前夜祭の期日に相当する2月14日に殉教した聖者ウァレンティヌスの伝説が導入されたといいます(*14)。現地ですでに定着している祭事ないし祝宴を、ただしその猥雑さや土着性は払拭したうえで布教に利用するために、ローマで当時の皇帝に抗って教義と信者の愛に殉死した聖人の伝説をここに上書きしたわけです。

しかしながら、聖人をめぐる伝説の信憑性への疑念を背景に、1969年には当のローマのカトリック教会がこれを教会行事から排除してしまいました(*15)。要するに、ここで[Valentine’s Day]は宗教性を完全に脱色され、まさしくバレンタインデーとなったのです。

いずれにしても、キリスト教の文化圏では、そうした文脈のもと2月14日が“愛の日”として認識されてきました。印刷技術や郵便制度が確立された近代以降にはここに資本主義が商機を求め、愛を口実としたカードや手紙のやりとりのみならず、商品の購入を前提とした贈答を煽るなど、ある種の経済活動となっていきます。このあたりから、西欧においてもその宗教性は次第に淡白化しつつあったものと考えられ、1969年のカトリック教会の決定は、いわばその追認にすぎません。



バレンタインデーと広告
西欧では、この“愛の日”には、カードとともに花や香水、小物などのほか、ケーキや菓子が贈与されるようになります。19世紀半ばのイギリスでは、大衆のあいだでバレンタインデーにおける商品の購入を前提とした贈与の応酬を習慣づけるべく、新聞や雑誌などを媒体として、商業資本がこの“愛の日”の今日な意義づけを図解とともに展開しています(*16)。いわゆるキャンペーン広告です(*17)。

それまでは液体飲料だったところ、1849年にブリストルで本格的な固形の食べるチョコレートが誕生してからは、イギリスではこの品目にチョコレートが登録されます(*18)。やがて箱詰めのチョコレート菓子が発売され、これをもとに“愛の日”のための贈答用に特化された商品も考案されています(*19)。しかしながら、そこではチョコレートは選択肢のひとつのままでした(*20)。

ところで、あるイギリスのチョコレート製造企業が1932年に実施したチョコレートに関する調査では、箱詰めチョコレートは男性が購入し、女性に贈与する事例の多数であることが確認されました。その調査をもとに、この企業は、箱のデザインをシンプルに、広告図案もバウハウス調に整え、そしてチョコレートを介した男性と女性の立場を固定的に設定した訴求を実施することとなります(*21)。

日本の場合、チョコレートの購入者は主に女性でした。

日本でバレンタインデーをチョコレートの販売促進に利用した事例は、1936年にモロゾフが英字新聞に掲載した広告が最初とされますが、おそらくこれは日本人に向けたものではありません。これから20年後にようやく、自社製品の顧客であった日本の若い女性たちに訴求するかたちで、デパートの店頭でバレンタインデーのための贈与品としてチョコレートを紹介する企画が実現されています(*22)。

もちろん、愛の表明は、なにも女性から男性に対してのみ片務的に固定されたものではありません。それでもなお、チョコレートの製造販売に従事する企業が“愛の日”を自社製品の消費増加の口実に援用するならば、日本におけるチョコレートの主な購入者が若い女性である以上、店頭での販売促進の訴求対象は自ずと彼女たちに偏ることは不可避です。ただし、その贈与の相手については、チョコレートを購入した彼女たちの愛の対象であれば、性別や年齢層、関係性など、その属性は問われないはずです。

事実、モロゾフにつづき、1950年代半ばには不二家がバレンタインデーを口実とする商品の販売促進を小売店に伝達していますが、社内報に残るその宣伝文句では、贈与する側も贈与される側も性別を固定されていません。それでいて、愛の対象が家族である場合に限り、なぜか「母」や「祖母」や「お姉さん」など年長の女性への贈与ばかりが促されてもいます(*23)。

バレンタインデーにおける愛の意味をことさら恋愛感情に限定し、しかも女性から男性への一方通行的な告白の契機としてこの日を設定し、その意中を吐露する贈与品としてほかならないチョコレートを指定したのは、1958年のメリーチョコレートカムパニーによる都内の百貨店でのフェアに際してのことだったとされます(*24)。

1960年には、単に百貨店の店頭での慎ましやかな販促活動としてではなく、全国規模での大胆な広報活動として、森永製菓が雑誌面や新聞紙面でバレンタインデーを自社のチョコレート製品の広告に利用していますが、ここでは愛の告白をめぐる女性から男性への片務性はいまだ曖昧なままです(*25)。

こうしてみると、バレンタインデーのありようを、チョコレートの贈与を介した女性から男性への恋愛感情の一方通行的な告白とする特有の要件のもと一般化した日本の流儀については、これがチョコレートを製品ないし商品として扱う菓子製造販売企業によって日本に紹介されたことが根本の原因であると考えられ、そうした経緯がこの特別な日の贈与品をチョコレートに収斂させる契機となったことはほとんど疑いありません。

加えて、これら企業の販促活動や広報活動においてその企図は必ずしも明瞭であったわけではないにもかかわらず、彼らの商品の顧客層があらかじめ若い女性に大半を占められていたために、彼女たちに対する訴求効果を高めるものとして、女性が男性に抱く恋愛感情の片務的な告白が結果的に煽られることになったのでしょう。



森永製菓
明治製菓や江崎グリコ、ロッテがバレンタインデー商戦に参画するのは1970年代後半からのようですが、先行した他社の動向に追随するこうした姿勢は、その時点で“愛の日”の日本におけるありようがおおよそ確立していたことを示唆するものといえるかもしれません(*26)。

ところで、日本で最初にカカオ豆からの国産のチョコレート製造に乗りだしたのは森永製菓でした。

1918年以来、すでにひとつの世紀にわたりチョコレートを作りつづけているこの企業については、なにしろ[も-り-な-が]の1音ごとにオカリナで[ソ-ラ-ソ-ド]の抑揚をつけた「ピポパポ」の“サウンド・ロゴ”、すなわち〈森永ロゴ〉に私たちの耳は馴致されています。これは、日本におけるCM音楽の先駆者である三木鶏郎による三芸社の音楽工房に所属した大森昭男が制作を担当し、同じく音楽工房の編曲家であった嵐野英彦が考案したものです(*27)。

1967年に採用されたこの“サウンド・ロゴ”の以前にも、森永製菓は、すでに1905年には商標登録していた「エンゼル」をめぐって、サトウハチローの作詞と芥川也寸志の作曲による企業CMソングとして〈エンゼルはいつでも〉を1951年に発表しており、この企業と「エンゼル」とのつながりを聴覚的にも補強するところとなりました(*28)。

ことチョコレートに関しては、たとえば「エールチョコレート」のCFに出演していた山本直純自身が、その味よりなお「大きいこと」を美徳とする商品のために1967年に作曲したCMソング〈大きいことはいいことだ〉が、ただこの商品のみならず時代をも象徴するコピーをとおして広く認知されています。

「チョコボール」のパッケージにおける食品の出口、つまり箱から摘んで引きだされ、ピーナッツをチョコで包んだこの菓子が転がって排出される黄色い嘴の部分に、もし「金色のエンゼル」か「銀色のエンゼル」かが印刷されていた場合には、色に応じて規定された枚数により「おもちゃのカンヅメ」が貰えるとするキャンペーンは、1967年の「まんがのカンヅメ」を1969年に継承し、いまなお継続されています(*29)。この商品の特性をもとに、ピーナッツと鳥を合体させた「キョロちゃん」がキャラクターとしてパッケージ表面に登場するのも1967年であり、その嘴の突出を機能的に落とし込んだ箱パッケージの意匠はやはり秀逸です。

「チョコフレーク」や「小枝」で紙媒体やラジオにおける広告にCharを起用するなど、若い女性たちへの宣伝効果にも敏感だった森永製菓からは、「エンゼルパイ」を含め多くのチョコレート菓子が発売され、私たちもこれらに親しんできました。けれどそうしたなかには、ほとんど忘れられてしまった商品もあります。

1976年の年末のものとされる「ラブチャット」のCFには、チョコレート菓子でありながらキャンディーズが出演しています。壁も家具もカーテンも白い部屋で彼女たちを捕捉するロング・ショットでは、次第にカメラが窓辺に佇む彼女たちに寄っていくなか、「言いたい気持ちが伝えられない」と愁う彼女たちの歌唱が重なります。



画面では彼女たちの物憂げな表情をそれぞれバスト・ショットで巡回しはじめたころ、冒頭からその中央に大きく提示されていた「森永チョコレートお買上げのお店でバレンタイン・プレゼント差上げてます」の字幕がようやく消え、これを合図に伊藤蘭の「どうしたら恋の願いが叶うのかなぁ」の台詞が聞こえます。伊藤に限らず藤村美樹や田中好子もともにその心中で呟いたと思しきこの問いに、「お答えします」と応じる天の声は、おそらく森山周一郎のものでしょう。

彼女たちがあわてて声の聞こえた方向であろう窓の外を見るやいなや画面は切り替わり、「LOVE ME」だの「FOR YOU」だのといった英字のメッセージが刻印された小さなハートの形状のチョコレート菓子が、赤を基調とするパッケージ箱にびっしり詰まっている様子が、商品名を旋律に変換した「森永チョコレート、ラァブチャット」の歌唱とともに紹介され、字幕の白い文字がこれに追随して表示されます。

最後のショットでは、窓辺に並列し、正対したカメラをまなざすミディアム・サイズのキャンディーズの面々は、各自がこの商品の箱を手にしています。背景の「あなたの気持ちを、伝えまーす」のナレーションの途中で、森山の声の調子が渋く枯れた低音からお茶目な高音へと変化するのにあわせて肩をあげ、物憂げだった表情を笑顔にしたところで例の「ピポパポ」が鳴り、これとともに後ろ姿の「エンゼル」の商標のがこちらを振り返ることでCFは終わります。

ここで描かれた状況が期待する消費行動とは、まさにバレンタインデーにおける日本の流儀そのものです。



不二家
モロゾフにつづいてバレンタインデーを菓子の販売促進の口実に援用したのは不二家でした。「今年からヴァレンタインデー」には「ハートの型のお菓子」を贈ることを勧奨するその宣伝文句を1956年の社内報で紹介していますが、ここでは「ハートの型」は必ずしもチョコレートのものと明言されていません(*30)。

それでもなお、不二家で「ハートの型のお菓子」といえば、なにをおいてもチョコレートでしょう。実際、不二家では「ハートチョコレート」の販売を1935年より開始と謳っていることから、「ハートの型のお菓子」の表現をもってこのチョコレートのことを示唆していた可能性は十分に考慮されるべきでしょう(*31)。なにしろこのチョコレートは、「今年から」の「ヴァレンタインデー」を待たず、かねてより心の、気持ちの、愛の輪郭を象っていたわけですから。

1970年代に入って日本式のバレンタインデーのありかたが定着するとき、この「ハートチョコレート」が提供した貢献はけっして小さくはないはずです。



1975年のこの商品については、赤いブレザーの女の子「ゆうこ」が濃紺のブレザーの男の子に白い封筒を手渡し、怪訝な彼はそこから「ハートチョコレート」をとりだして小躍りするCFが制作されています。このときCMソングに採用されたのは、Sugar Babeによる演奏とともに山下達郎が前年に吹き込んだ〈不二家ハートチョコレート’74〉でした。

朝日麦酒が製造する「三ツ矢サイダー」のCMソングを舞台に、すでに大瀧詠一との協働で〈Cider’73〉を実現していた大森昭男は、1972年にCM音楽制作会社であるON・アソシエイツを設立したばかりでした。やはり大瀧に依頼した別のCMソングの収録の際に、彼はここにコーラスとして起用されたSugar Babeの面々とも遭遇しています(*32)。大瀧詠一にしても山下達郎との邂逅からほどない時期のことです。

その年末にはSugar Babeによるコンサートを開催し、ついに公式に日本の大衆音楽の現場に登壇した山下達郎は、翌1974年の年始には大瀧の〈Cider’74〉の録音にハーモニカとして参加しています。この年から、大森昭男を介してCMソング制作の依頼がいくつも山下のもとに届くようになります。Sugar Babeの唯一のアルバム盤となる《SONGS》が発表される前年であり、ほとんど仕事のなかった当時の彼にとって、実演料と作曲料を合算すれば大卒初任給の倍にはなったというこれらの報酬が、彼の音楽活動を継続させ、今日のその存在性を担保したわけです(*33)。

なお、山下の実家はこのころお菓子屋を営んでおり、「ハートチョコレート」の仕事の露出をもってようやく音楽活動の継続に両親の理解をえたともいいます(*34)。

1976年には、〈不二家ハートチョコレート’74〉の歌詞の一部をバレンタインデー商戦のために改変し、やはり山下達郎の歌唱により〈不二家ハートチョコレート’76(バレンタイン編)〉が吹き込まれています。



この楽曲を背景としたCFの冒頭では「バレンタイン大作戦」と銘打たれ、横長の机にそって一列に横並びした4名の女の子が流れ作業で「ハートチョコレート」入りの白い封筒を山のように量産していきます。そのうちひとりの顔が大写しとなるや、彼女は持ちあげた視線でカメラを直視し、「今年ももうすぐバレンタインだけど、好きな子いる?本年もまたまたハートで迫ります」と語りかけます。おそらくこのCFは1977年に放送されたものと考えられますが、大森昭男の業績一覧にその記載はありません(*35)。単なる遺漏か、それともこの仕事については彼の手を離れていたのかもしれません。

いずれにしても、ここで重要なこと、それは、この時点で「バレンタイン」と「ハート」の等価性が前提とされていることです。ここでいう「ハート」とは、もちろん「ハートチョコレート」です。ただし、心、気持ち、愛とは、これがチョコレートとして物質化された限りにおいてまぎれもなく可算的であり、もはや相手に対する質ではなく、山のような相手の量としてそれは測られます。個人から個人への恋愛感情の告白ではなく、複数の友人のあいだで共有される行事となり、深刻でロマンティックな苦悩の閉鎖性から軽便にしてカジュアルな娯楽の開放性へと位相を転換したバレンタインデーは、やがて親愛感情をも商機として組み込んでいきます。

そのうえで、「今年も」、「本年も」、「バレンタイン」とはすなわち「ハートで迫」るものだとされます。副助詞[も]が提供する並列性は、この等価性が既成であることを証言します。すでにこのときの「バレンタイン」が、彼女たちの「大作戦」であるのみならず不二家にとっての「大作戦」でもあったことはまちがいないでしょう。



明治製菓
大森昭男は、ON・アソシエイツを設立してほどなく不二家の「ルックチョコレート」のCM制作に参画しています。

これ以前にも、「ルックチョコレート」のCMソングとしては、たとえば1965年に永六輔の作詞と中村八大の作曲による〈ルックチョコレートの歌〉を弘田三枝子が歌唱しています。また、すぎやまこういちが作曲し、布施明が歌うCMソングに、田名網敬一が担当したサイケデリック調のアニメーション映像が印象的な1970年のCFもあります。




さらに、チョコレートではありませんが、「ソフトエクレア」のCMでは荒井由実が起用されています。1974年には〈やさしさに包まれたなら〉が、1976年にはCMオリジナルの〈ほっぺたにプレゼント〉が流れ、のちに1980年の松任谷由実の〈まぶしい草野球〉へと継続されるものです。



こうしてみると、不二家が歌謡曲の創造性を積極的に広告活動に応用してきた企業であることが理解されます。事実、ニッポン放送におけるラジオ番組『不二家歌謡ベストテン』の冠スポンサーでした。

しかしながら、チョコレートと企業との因縁をもっとも端的に謳ったCMソングは、明治製菓のものにちがいありません。

あまりにも有名な「チョッコレート、チョッコレート、チョコレートは明治」のフレーズは、いずみたくにより1963年に作曲され、1967年にはザ・タイガーズが出演した「ミルクチョコレート デラックス」など板チョコのCMで歌われています(*36)。今日もなおテレビから聞こえてくるこの〈明治チョコレート・テーマ〉において、チョコレートの風味や芳香の陶酔的な甘美さにもかかわらず、むしろそのほろ苦さをこそ前景化するような短調の、しかもブルー・ノートに相当する♭5の音を反復的に組み込んだ旋律の憂鬱な響きは、いまでは聴覚よりも記憶に訴えるものとなりました。

いずみたくは明治製菓のための仕事も多く、この決定的な貢献のほか、たとえば「マーブルチョコレート」のCMソングも作曲しています。1962年に上原ゆかりをキャラクターに採用したCFが話題となったほか、テレビ番組としては国産で最初のアニメーション作品『鉄腕アトム』の放送がはじまる翌年には、明治製菓がこのスポンサーとなったことから、そのシールなどをおまけとして「マーブルチョコレート」の筒パッケージに封入するキャンペーンを実施し、成功します(*37)。



清廉にして明朗な〈世界は二人のために〉もいずみたくの作曲です。すべてのパートについてⅠ−Ⅱm7−Ⅴ7−Ⅰで循環する同一のコード進行のみを使用し、AパートとA’パートがそれぞれ4小節ずつ、BパートとB’バートがそれぞれ4小節ずつ、あわせて16小節で1コーラスが構成されるこの楽曲の単純さも、本来はこれが明治製菓のチョコレート「アルファ」のCMソングとして書かれていたことに起因するものです。石坂浩二と小川知子が共演し、いくぶん映像表現の技巧に走りすぎたきらいのあるCFにそって、ボニージャックスの歌唱により披露されたこの楽曲は、1967年に佐良直美のデビュー曲となりました。



いずみたくもやはり、三木鶏郎の門下生でした。彼は、新しいリズムはまずCMソングで試してみるなど、それを歌謡曲における展開の可能性を測る先鋭的な実験の現場として想定していたところと考えられます(*38)。

チョコレート製品のほかには、1974年以来、つのだ☆ひろや小坂一也、果ては志村けんら多彩な歌声でお茶の間に親しまれた「カール」のCMソングなども、明治製菓の代表作です。いまやこの商品は関西のみに販路を限定されてしまいましたが、そのCMソングの歌唱については、なんといっても三橋美智也のそれに敵うものではありません。



なるほど、この菓子の原材料や風味からすれば、カントリー&ウェスタン歌手の寺本圭一を起用した当初の意図は的を射ていたとはいえ、商品それ自体のありようをより直感的に表現したのは、民謡歌手としての出自を保持する三橋美智也の歌唱のほうでしょう(*39)。鄙びた村落ののどかさに重ねて菓子の食感や摂食の状況を謳うこのCFのアニメーション映像に、彼の歌唱は存分に調和し、いずみたくの弟子である川口真が作曲と編曲をあわせて担当したカントリー調のワルツを、抜けのいい高音のコブシひとつで3拍子の音頭に変えてしまいます。



キャッチフレーズからイメージへ
三木鶏郎が君臨した時代、CMソングとは、覚えやすく口遊みやすい旋律に乗せて歌唱されるキャッチフレーズ、すなわち“キャッチフレーズ・ウィズ・ミュージック”のことでした(*40)。楽曲そのものが商品ではないここでは、それが果たすべき明確な目的があります。自身以外のなにかについて、聴き手ならぬ聞き手に対して強くこれを印象づけ、その認知を向上させ、ひいては単なる聞き手をこのなにかの消費へと駆動させるために歌われるもの、それがCMソングなのです。つまるところ、広告する商品や企業をめぐって聞き手を消費者に転換するための動機づけこそが、CMソングに期待される当の機能にほかなりません。

たとえば、三木による「明るいナショナル」のキャッチフレーズには、企業名と、この企業が扱う製品がもたらす効用としての電化による明るさが端的に表現されています。「クシャミ3回ルル3錠」なども、無駄な字数を禁欲的なまでに削ぎ尽くして商品名とその用法のみを謳った秀作でしょう。




終戦直後の焦土にあった日本がようやく社会的に安寧し、経済的な回復を達成していこうとするさなか、開始されてほどないラジオの民間放送を舞台に、誰の耳にも届きやすいよう企業や商品の特性をわずかな文字列に要約し、音楽とともに刷り込むこの手法がCMソングの王道となったわけです。楽曲の旋律を構成する音符の数やそれが連なるときの抑揚において、放送時間にもとづき被らずにはいない制約もまた、キャッチフレーズの表現をより洗練させる要因となったにちがいありません。

その後、三木鶏郎のもとでともに活動した大森昭男と嵐野英彦が創意した、単純な音の並びだけで企業や商品の同一性を聴覚的に象る“サウンド・ロゴ”の手法や、すでに「クシャミ3回ルル3錠」の場合などにみられた情報の実用性について、さらに有益な解説を節回しで唱えて提供する仕方で嵐野が確立したとされる“インフォマティブ・ソング”の手法などをCMソングは獲得していきます(*41)。

やがてテレビ放送がはじまるも、その当初にはCMソングは、映像に付随してこれを支えるかたちでCFの背景に流されていたにすぎませんでした。しかしこれが日常となるころには、単に企業や商品の特性を言葉で直接的に謳うのではなく、映像との相互的な作用のなかでメッセージ性の希薄にして曖昧な、ただし訴求対象にとっては相応に好意的に受容されるだろう雰囲気を醸成し、これを企業や商品にまとわせるべく、CMソングのありようが模索されるところとなります。いわゆる“イメージソング”としての試行です(*42)。

広告を制作する側が主導してキャンペーンのテーマやコピーをあつらえ、これに呼応するかたちで映像と音楽とがその方向性を共有し、対等に協働すること。そうしたCMソングは、CFとの相乗をもって企業や商品のために奉仕するものであるにもかかわらず、いったん映像を欠き、CFから、さらにはCMから独立してなお、自律した楽曲として鑑賞されるに足る質を備えることになりました。

〈Cider’73〉をはじめ「三ツ矢サイダー」のCMソングとして自身が提供した一連の楽曲をめぐる大瀧詠一の姿勢は、その嚆矢となるものでした。たとえそこに商品名が含まれていようとも、彼はこれらをそのままレコードに収録しようと企てたすえに、1975年に《NIAGARA MOON》を発表します。かつて流れては消え、滞留することなく霧散する宿命にあったCMソングは、いまやこうして音盤に記録され、それ自体がひとつの商品として市場に供給されることを正当とする新しい価値を担うに至ったわけです。さらに彼は、1977年には自身の関与したCMソングだけを集めたアルバム盤として《NIAGARA CM SPECIAL Vol.1》も発表しています。

広告における“イメージソング”は、あらかじめレコードでの発売を前提に制作されるものとなっていきます(*43)。



江崎グリコ
それどころか、今度はレコード会社の側が楽曲を売るためにCMソングの立場を利用するまでに事態は変容します。“タイアップ”と呼ばれるこのような状況については、あらためてCMソングとして楽曲が制作される場合のほか、レコード会社が薦める新譜や既成曲のなかから企業や商品のイメージと合致するものがCMソングとして採用される場合もあります(*44)。

三浦友和が出演した江崎グリコ「アーモンドチョコレート」のCMソングへの起用をきっかけに、1977年に松崎しげるの〈愛のメモリー〉が、1978年には松山千春の〈季節の中で〉があいついで大ヒットした事実は、その典型的な好例といえるかもしれません。スケールの壮大な清々しい楽曲を、豊富な声量と安定した音程による本格的な歌唱をもって披瀝する有望な、しかし知名度の低い歌い手に、江崎グリコの「アーモンドチョコレート」は独壇場を提供したわけで、これは1979年の永井龍雲による〈道標ない旅〉にも該当するはずです。



ただしそれは、およそこの時期のみにみられた事情でした。

というのも、「アーモンドチョコレート」や「セシルチョコレート」のCMでは、1970年代後半にシリーズ化された山口百恵と三浦友和のペアによる出演はいうまでもなく、1980年には〈ハッとして!Good〉の田原俊彦が松田聖子と共演し、1982年には〈約束〉の渡辺徹が小泉今日子と共演するなど、基本的にはむしろCFにおいて視覚的に露出するアイドルらのプロモーションの舞台として活用され、翻って彼らの人気や性質を商品の側に引用することで、競合企業や競合商品との差別化を企図するものだったと考えられるからです。




たとえば、1984年の「アーモンドチョコレート」における〈恋人達のペイヴメント〉のALFEEなどは、すでに著名なバンドの新曲がCMソングとして“タイアップ”されたにすぎません。

1982年の「セシルチョコレート」におけるクリスタルキングの〈セシル〉には、楽曲の題名や歌詞に商品名が露骨に組み込まれていますが、これ以上のなにごとも生じるところではありませんでした。

それでもなお、1982年に白いスカーフのセーラー服姿で堀ちえみが出演した「セシルチョコレート」のCFは、ここでCMソングに採用された杉真理の〈バカンスはいつも雨〉ときわめて緊密な協働を達成しています。



堀ちえみは、この年の春、小泉今日子と同日に〈潮風の少女〉でデビューしたばかりでした。そこで編曲を担当していた鈴木茂を次の〈真夏の少女〉では作曲にも起用し、つづく〈待ちぼうけ〉については、鈴木による編曲のまま竹内まりやに作詞と作曲が委ねられています。

その竹内まりやの歌謡界への登場に深く貢献している杉真理をめぐっては、松任谷正隆が松任谷由実につづく新人アーティストとして彼らの事務所である雲母社に誘いたかったところ、すでにデビューが決まっていたため断念せざるをえなかったと語るほど、その才能を高く評価しています(*45)。実際に、1977年から翌年にかけて杉はMari & Red Stripesなどの名義で2枚のアルバムを発表し、ここには竹内まりやもコーラスで参加していますが、病気療養のため活動を休止していた期間に彼はCMソングの制作に携わっています。

四人囃子のメンバーだった佐久間正英、茂木由多加、それに近田春夫とともに、設立されたばかりのCM音楽制作会社であるミスターミュージックの草創期に専属作家契約を締結し、1980年にはSONYの「カセットテープBHF」のCMソングとなるTHE HOSPITALSの〈LIVE CAPSUL〉を手がけました(*46)。


この年に個人名義で再デビューした杉真理は、翌年に、大瀧詠一の《NIAGARA TRIANGLE VOL.2》で佐野元春と並んで共同制作者に指名され、〈A面で恋をして〉の録音に参加します。また、同じレコード会社に所属していた松田聖子には、松本隆が全曲の歌詞を書いた《風立ちぬ》に〈雨のリゾート〉を提供していますが、このアルバムは、〈白いパラソル〉を除く収録曲のすべてについて大瀧詠一と鈴木茂とが盤の片面ずつをプロデュースした、はっぴいえんど色の濃いものです。なお、このアルバムに収録され、大瀧が作曲したシングル曲〈風立ちぬ〉は、松田聖子の出演により江崎グリコの「ポッキー」にCMソングとして採用されます。



1982年には個人名義で2枚目となる傑作《OVERLAP》を発表するなど、上昇機運にあった杉真理は、当時まさに堀ちえみと同じホリプロダクションが業務管理を担当していました。「セシルチョコレート」のCMでの協働ののち、杉は堀のアルバムにも楽曲を提供することになります。

新進気鋭の男性アーティストによる聴覚をめぐる存在性と、デビューしたての女性アイドルによる視覚をめぐる存在性とが、同一の芸能事務所に所属するもの同士の絶妙な力関係のなかで相乗的に反応しあい、それが短編映画のような物語性のなか「赤いカサ」を介してこの商品の赤いパッケージ箱へと収斂していくさまは、まぎれもなくCMという表現様式の醍醐味と感じられます。

杉真理が松田聖子に提供した〈雨のリゾート〉の作詞者が松本隆である一方、「セシルチョコレート」のCMソングとなった〈バカンスはいつも雨〉の作詞者は彼自身ですが、もかかわらずこれらのあいだにある種の共鳴を聴くことはさほど困難ではないでしょう。




〈雨のリゾート〉では、「天気予報」が「晴れるはず」だとしていた「ホリデイ」を「台無し」にする「雨」のせいで、「恋の雲ゆき」も「あやしくな」りそうです。〈バカンスはいつも雨〉においても、「バカンス」の「雨」によって思惑がはぐらかされ、「はずれてばかりの天気予報」を責めたくなるほどに「思うようにはならない」のは、やはり「恋」の行方です。



ロッテ
〈バカンスはいつも雨〉のシングル盤のジャケットには、「グリコセシルチョコレート」の「CFイメージソング」である旨が明確に謳われていますが、CMのために吹き込まれた音源は、この盤面に収録された音源とはテンポおよび歌詞に相違が認められます。

まず、30秒というCMの放送枠の単位尺を合致させるために、そしておそらくはCFの風情を損なわないように、レコード音源よりもわずかに緩やかなテンポで演奏されています。

さらにCMで使用された音源では、CFの趣旨からか「Don’t Cry」の歌詞の言葉が「揺れる心」へと改変されています。ここは、CMで流れる16小節のなかでもっとも高音で歌唱される部分であり、まさにこの部分の歌唱をきっかけに、物憂げに瞳を伏せていた横顔の堀ちえみはにわかに視線をあげてこちらあたりをまなざし、カメラも当初のバスト・サイズから彼女の笑顔の表情の大写しへと被写体に接近していきます。

けれどそうしたなか、この視線がカメラのレンズと衝突することばかりは賢明にはぐらかされ、そしてほんの一瞬だけ静止処理を施された大写しの表情をはにかむように傘で隠すことによって、画面が赤く覆われることが出来事として正当化されるのです。

それゆえに、ここはいわばCMソングとしてもっとも肝要な瞬間であったにちがいありません。こうした核心に歌詞の改変を迫られ、杉真理も穏やかではなかったようです(*47)。しかしこの改変をもって、「つつんであげたい」とされた彼女の「揺れる心」はまさにアルミ箔に個包装されたひと粒チョコとなり、それらいくつもの「思」いが「赤いカサ」のごときパッケージ箱のなかに並べられ、消費者の手もとに届いた結果として、この楽曲も彼の最大のヒット曲となります。

ところで、小泉今日子や堀ちえみの同期に相当する松本伊代は、1981年に、デビュー曲〈センチメンタル・ジャーニー〉とともにロッテの「ガーナチョコレート」のCMに起用されています。



堀ちえみが出演していた「セシルチョコレート」のCFでは、彼女の傘が画面を覆うことによって自然に赤色が浸透しました。他方で、やはりセーラー服を着用した「ガーナチョコレート」の松本伊代の姿は、堀の白よりもいくぶんかチョコレート色に染まったスカーフを巻き、はじめから赤色そのものを背景とするスタジオで撮影されたものです。

堀ちえみの場合のみならず、山口百恵と三浦友和、田原俊彦と松田聖子、渡辺徹と小泉今日子らがそれぞれペアで出演していた江崎グリコの「アーモンドチョコレート」や「セシルチョコレート」の一連のCFが、ロケーション撮影による複数のショットを映画的な仕方で組みあわせ、現実に取材した固有の空間の構築と時間の組成をとおして商品を消費する理想の状況を提示していくのに対して、ロッテの「ガーナチョコレート」のCFは、松本伊代をひとりの女性アイドルたる松本伊代そのひととして扱っているにすぎません。

人工的で平板な空間、あるいはむしろ平面のなか、当初は手もとに掲げた商品の包み紙が勝手に剥けていく不思議なさまを注視していたバスト・サイズの松本は、ほどなく、人物の輪郭を輝かせるよう入念に調整された照明のもと彼女を正面から撮影するカメラのレンズをまなざし、お茶の間の視聴者に向かってその視線を投げかけます。笑顔の彼女は、さらに商品から指先を放ち、魔術のごとく宙に浮いたそのチョコレートをこちらに送り届けるように、視線にならって掌を差しだします。

「セシルチョコレート」の堀ちえみの姿が、彼女と同じ年ごろの誰でもかまわないある等身大の女子高校生を象る一方で、「ガーナチョコレート」の松本伊代の姿は、まさしくそのデビュー曲で「伊代はまだ 16だから」と歌われた歌詞の世界のなかに自らを位置づけ、虚構化してみせたアイドルとしての彼女自身、やがて〈ラブ・ミー・テンダー〉における「鏡の向こう」の「不思議な世界」を通過し、〈TVの国からキラキラ〉で擬音のごときオーラを放散しようとしている、芸能界の新星たる彼女自身のものです。

勝手に剥けていく包み紙や宙に浮いたチョコレート、そしてこのショットを支配するスローモーションによる緩慢な浮遊感とは、だから〈オトナじゃないの〉においてついに「魔女のコ」を自認するに至る松本伊代が、それを予告するようにあらかじめ「ピーピピピ」と「かけ」た「魔法」にほかなりません。ここでの彼女のセーラー服姿も、いわばその「魔女」性が世を忍ぶためのかりそめの衣装なのです。

要するに、件のCMは、松本伊代という虚構的な存在の質がこうしてデビューの初年を費やしながら次第に確立されていくその発端として、これに積極的に加担しているわけです。

ロッテのチョコレートをめぐるCMソングとしては、「チョコレート、ロッテ」と歌唱されるあの楽曲がもっとも親しまれたものでしょう。

九重佑三子と関口宏とが出演していた1970年の「ガーナチョコレート」のCFでは、浜口庫之助によるこの〈小さな瞳〉を相沢政子が歌唱しています。以降、それはしばたはつみやキリンジら多くの歌い手によって歌い継がれてきましたが、もともとは1968年にパープル・シャドウズが発表したシングル盤〈瞳の世界〉を原曲とします。



バレンタインデーに歌謡曲
渡辺徹とのペアで、江崎グリコの「アーモンドチョコレート」や「セシルチョコレート」のCMに複数年にわたり起用されていた小泉今日子は、しかし1985年に今度はロッテの「ガーナチョコレート」のCMに起用されます。1988年の「ガーナチョコレート」のCFには、あろうことかグリコを想起させずにはいない「チ、ヨ、コ、レ、イ、ト」の律動で、大股でカメラに近づいてくる彼女の姿が映されています。〝江崎グリコの3歩先をいくチョコレート”、あるいは〝江崎グリコよりも3歩あなたに近づくチョコレート”といった謂でしょうか。



さらに彼女は、2009年には明治製菓の「ミルクチョコレート」のCMにも起用され、あの「チョッコレート、チョッコレート、チョコレートは明治」のフレーズを口遊むことになります。



バレンタインデーをめぐる歌謡曲としては、国生さゆりwithおニャン子クラブの名義により1986年に発表された〈バレンタイン・キッス〉ほど知られた楽曲はないかもしれません。




1989年の《Love Wars》に収録された松任谷由実の〈Valentine’s RADIO〉の歌詞は、この“愛の日”を日本語としては珍しく「バレンタインズデイ」と表記し、またそのように歌唱されていますが、いまや問題は日本におけるこの日のありようについてである以上、その綴りと響きはいかにもバブル期に特有の衒学に思えます。




Perfumeの〈チョコレイト・ディスコ〉が収録されたCDは、DVDとの抱きあわせで《Fan Service》として2007年にパッケージ化され、バレンタインデーに発売されていますが、これを納入する白いケースの表面に穿たれた多数のパンチ穴はハートのかたちの孔版となり、いかにも“愛の日”の贈りものたらんと努めています。




家入レオが歌唱する慎ましくも愛らしい佳作〈チョコレート〉は2014年の楽曲です。ただし、「チョコレート」であるにもかかわらず、「チョ」ならぬ「ポ・ポ・ポ・チョコレート」と歌われる理由は判然としません。

細野晴臣や鈴木茂はもちろん、山下達郎を含むTin Pan Alley周辺のミュージシャンによるサポートのもと、いしだあゆみが吹き込んだ1977年のアルバム《Our Connection》には、萩田光雄の作曲による〈バレンタイン・デー〉が収録されています。すでにそこでは、“愛の日”の「贈り物」は「可愛い娘」から「男」に与えられるものであることが前提となります。




同年に大瀧詠一が発表した《NIAGARA CALENDAR》で2月の曲順を飾ったのは、ほかでもない〈Blue Valentine Day〉でした。手書きの歌詞カードに「Valentine Day」と記述されるここにおいては、「女の子」が「プレゼント」として「相手」に「送る」もの、そして「僕」が「君から」は「もらえそうもない」もの、それは、もはやまぎれもなく「チョコレート」、わけても「ハートのチョコ」であって、ストリングスの編曲のためにこの収録に参加している山下達郎による不二家のあの商品のCMソングが、ここにようやく結実をみたところと考えて無理はないでしょう。



*1 鴨下信一,『誰も「戦後」を覚えていない』, 文藝春秋(文春新書), 2005, p.168.
*2 佐藤健志,『僕たちは戦後史を知らない』, 祥伝社, 2013, pp.75-76.
*3 鴨下, 前掲書, p.62.
*4 佐木隆三,「少年の目に映った占領軍」,『開封された秘蔵写真 GHQの見たニッポン』所収, 太平洋戦争研究会/編, 世界文化社, 2007, p.207.
*5 同上.および半藤一利+竹内修司+保阪正康+松本健一,『戦後日本の「独立」』, 筑摩書房, 2013, p.118.
*6 武田尚子,『チョコレートの世界史』, 中央公論新社(中公新書), 2010, pp.173-174.
*7 同書, pp.1-11.
*8 同書, pp.118-119.
*9 同書, pp.169-174.
*10 小笠原祐子,『OLたちの〈レジスタンス〉』, 中央公論新社(中公新書), 1998, p.90.
*11 同書, pp.90-96.
*12 浜本隆志,『バレンタインデーの秘密 愛の宗教文化史』, 平凡社(平凡社新書), 2015, pp.13-17.
*13 同書, pp.17-36.
*14 同書, pp.37-67.
*15 同書, p.10.
*16 同書, pp.161-163.
*17 武田, 前掲書, pp.149-159.
*18 ソフィー・D・コウ+マイケル・D・コウ,『チョコレートの歴史』, 樋口幸子/訳, 河出書房新社, 1999, pp.340-342.
*19 同書, pp.342-343.
*20 浜本, 前掲書, p.163.
*21 武田, 前掲書, p.155-156.
*22 小笠原, 前掲書, p.96.
*23 同書, pp.96-97.
*24 同書, p.98.および「メリーのバレンタインヒストリー」
(https://www.mary.co.jp/mary/brandstory/valentine.html), 『Mary’s』所収, メリーチョコレートカムパニー, 2013.
*25 小笠原, 前掲書, pp.99-101.および「企業情報/沿革・歴史/昭和」
(https://www.morinaga.co.jp/company/about/history02.html), 『森永製菓』所収, 森永製菓, 2020.
*26 同書, p.101.
*27 田家秀樹,『みんなCM音楽を歌っていた 大森昭男ともうひとつのJ-POP』, 徳間書店, 2007, pp.27-29.
*28 「モリナガデジタルミュージアム/宣伝広告」
(https://www.morinaga.co.jp/museum/gallery/), 『森永製菓』所収.
*29 「商品情報/ブランドサイト/チョコボール/キョロちゃんの歴史」
(https://www.morinaga.co.jp/kyorochan/history/), 同サイト所収.
*30 小笠原, 前掲書, pp.96-98.
*31 「商品情報/15枚ハートチョコレート(ピーナッツ)袋」(https://www.fujiya-peko.co.jp/sweets/item/16402.html), 『不二家』所収, 不二家, 2018.
*32 田家秀樹,『みんなCM音楽を歌っていた 大森昭男ともうひとつのJ-POP』, 徳間書店, 2007, pp.358-365.
*33 同書, pp.53-55.
*34 牧村憲一,『「ヒットソング」の作りかた 大滝詠一と日本のポップスの開拓者たち』, NHK出版(NHK出版新書), 2016, pp.75-77.
*35 田家, 前掲書, pp.394-446.
*36 同書, p.155.および「いずみたく/作品リスト」
(https://www.allstaff.co.jp/as/index-3-1.html), 『オールスタッフ』所収, オールスタッフ, 2019.
*37 大橋正房,「コマーシャル小史」,『大衆文化としてのテレビ』所収, 南博/監修, 川上宏/編, ダイヤモンド社, 1979, pp.172-173.
*38 天野祐吉,「大衆文化としてのCM」, 同書所収, pp.45-46.
*39 大瀧詠一,『大瀧詠一 Writing&Talking』, 白夜書房, 2015, pp.704-705.
*40 田家, 前掲書, pp.20-23.
*41 同書, p.29.
*42 難波功士,「コマーシャルの展開点としての七〇年代」,『テレビだョ!全員集合 自作自演の1970年代』所収, 長谷正人+太田省一/編, 青弓社, 2007, pp.137-143..
*43 田家, 前掲書, pp.58-62.
*44 同書, pp.118-120.
*45 松任谷正隆,『僕の音楽キャリア全部話します』, 新潮社, 2016, pp.98-100.
*46 田家, 前掲書, pp.76-86.
*47 「昭和40年男 特集:俺たちシティポップ世代」2月号, クレタパブリッシング, 2014, p.41.



堀家教授による「私のチョコレート」10選リスト



1.〈東京キッド〉美空ひばり(1950)
 作詞/藤浦洸,作曲/万城目正,編曲/仁木他喜雄




ここで「歌」が、「チュウインガム」や「チョコレート」といった商品を介して「夢」と結合するさまは、アメリカ的な豊かさのなんたるかを喧伝するまぎれもないCMソングとしてこの楽曲を規定する。



2.〈世界は二人のために〉佐良直美(1967)
 作詞/山上路夫,作曲・編曲/いずみたく




明治製菓のチョコレート「アルファ」のために制作され、ボニージャックスの歌唱がこれを紹介したときには、まだ歌詞のないサビの箇所はハミングによるコーラス・ワークで処理されていた。伴奏もナイロン弦のギターによるストロークのコード弾きのみであり、この楽曲のフォーク調の側面が露呈していたが、佐良のヴァージョンではドラムスとベースの参入をもってリズムが刻まれ、前奏や間奏をはじめエレキギターがリードを弾く機会も多い。終盤に向かうにつれ、ここにストリングスが重なっていくが、その膨らみは懸命にも大仰さの一歩手前で立ち止まる。



3.〈愛のメモリー〉松崎しげる(1977)
 作詞/たかたかし,作曲・編曲/馬飼野康二




江崎グリコ「アーモンドチョコレート」CMソング。既存の楽曲が山口百恵と三浦友和の出演したCFにあわせてお茶の間に流れたことで注目され、レコード発売されるに至って以来、これと顔の黒さだけを頼りに松崎しげるは活動している。事実、2012年には、収録された14トラックのうちインストゥルメンタルの2曲を除きすべてが自身によるこの楽曲の異ヴァージョンとなるCDも発売されている。インストゥルメンタルの2曲がそのカラオケであることはいうまでもない。



4.〈Blue Valentine Day〉大滝詠一(1977)
 作詞・作曲/大瀧詠一,編曲/多羅尾伴内




1枚のアルバムをカレンダーに見立てた《NIAGARA CALENDAR》に12月の曲として収録。ストリングスの編曲は山下達郎が担当している。手書きの歌詞カードにおける〈Blue Valentine Day〉の表記は、のちにこの楽曲がシングル盤として発売された際、〈ブルー・ヴァレンタイン・デイ〉となる。この表記は、もちろんはっぴいえんどの結成当初のバンド名を想起させるが、ただしジャケット裏面に記載された歌詞では「Blue Valentine Day」のままである。やがてアルバム盤の歌詞カードが活字印刷に変更されるにあたり、これらは〈Blue Valentine’s Day〉の表記に統一される。もとより甘い大滝の歌声は、ここで駒沢裕城によるスティール・ギターが絡むことによりチョコレートの甘さをゆうに超える。



5.〈悲しみ2(TOO)ヤング〉田原俊彦(1981)
 作詞・作曲/網倉一也,編曲/船山基紀




江崎グリコ「アーモンドチョコレート」CMソング。〈ハッとして!Good〉が流れるなか田原俊彦と松田聖子が共演したことの豪華さは、「アーモンドチョコレート」と「セシルチョコレート」をともに広告することへの意気込みの結果だった。しかしここに三浦友和と山口百恵の姿を二重写しするファンへの配慮からか、その後の田原は単独で「アーモンドチョコレート」CMに起用されることになる。彼が歌唱した楽曲のうち、デビュー曲と並んで近藤真彦の歌声にも適応できるだろう秀曲。他方で松田聖子は、大瀧詠一が提供した〈風立ちぬ〉をもって「ポッキー」のCFに出演している。



6.〈セシル〉クリスタルキング(1982)
 作詞/大津あきら,作曲/山下三智夫,編曲/梅垣達志


江崎グリコ「セシルチョコレート」CMソング。威圧的なツイン・ヴォーカル、とりわけ圧倒的な高音と音圧を誇った田中昌之までも脇に追いやりここでマイクをとった山下三智夫の歌唱は、相応に味があるとはいえ、なにより〈大都会〉からこんな夏の歌謡曲までを手がける彼のソングライターとしての才能を知らしめた佳曲。



7.〈約束〉渡辺徹(1982)
 作詞/大津あきら,作曲/鈴木キサブロー,編曲/大村雅朗




江崎グリコ「アーモンドチョコレート」CMソング。この時代、鈴木キサブローによる提供曲には、三好鉄生の〈涙をふいて〉や小泉今日子の〈黄色いチューリップ〉、H2Oの〈想い出がいっぱい〉や岩井小百合の〈水色のラブ・レター〉、SALLYの〈バージンブルー〉や徳永英明〈輝きながら…〉など、サビのキャッチーさとともに洗練されすぎないわかりやすい歌謡曲の良作が多い。この楽曲もまた、そうしたもののひとつである。



8.〈バカンスはいつも雨〉杉真理(1982)
 作詞・作曲・編曲/杉真理




江崎グリコ「セシルチョコレート」CMソング。CMに採用されたヴァージョンよりもテンポが早く、歌詞も改変されたレコード盤のヴァージョンは、あらかじめCMになじんだ耳の求めたものとは異なる印象を与え、それゆえCFが描いた情緒をいくぶん逸脱した調子で聞き手を戸惑わせずにはいない。マンガ原作のアニメーションに対する失望にも似たこの当惑は、それでもなお、聴き手におけるこうした吃りもまたCMソングの魅力であることを認識させるだろう。



9.〈恋人達のペイヴメント〉ALFEE(1984)
 作詞/高見沢俊彦・高橋研,作曲/高見沢俊彦,編曲/ALFEE




江崎グリコ「アーモンドチョコレート」CMソング。レコード化された録音と比較してスネア・ドラムの深い残響やピアノの音量を抑え、これによりストリングスを前景化させたCMの音源は、 CFに出演している石黒賢と沢口靖子が草原のなか自転車を二人乗りするなど爽やかな情趣の映像に配慮したものか。彼らの屈指の名曲。



10.〈チョコレート〉家入レオ(2010)
 作詞/家入レオ,作曲/家入レオ・西尾芳彦,編曲/鈴木Daichi秀行




リズム・ボックスの使用をはじめ慎ましい音づくりが、明示はないもののおそらくバレンタインデーのための「チョコレート」をめぐる些細な、ただし本人にとって重大な日常の機微を謳う主題と合致して好ましい。それにしても、なぜ「ポ・ポ・ポ」なのか。



番外_1.〈明治チョコレート・テーマ〉ザ・タイガース(1967)
 作詞・作曲/いずみたく



「チョッコレート、チョッコレート、チョコレートは明治」でおなじみのCMソング。なにしろブルー・ノートが効いている。1963年にスリー・グレイセスが歌唱したものがこの楽曲の最初のヴァージョンのようだが、GSブームの渦中でデビューしたばかりのザ・タイガースの面々が、リズムにあわせて仰々しく左右に身体を揺すりながら演奏し、とりわけマイクを手に精いっぱいの愛想をふりまくジュリーが初々しいCFのヴァージョンが印象的。



番外_2.〈小さな瞳〉しばたはつみ(1977)
 作詞・作曲/浜口庫之助,編曲/瀬尾一三



「チョコレート、ロッテ」でおなじみのCMソング。相沢政子の歌唱により1970年のCMで使用されたこの楽曲の原曲は、GSをムード歌謡に傾斜させつつあるパープル・シャドウズが1968年に発表した〈瞳の世界〉である。その歌詞を改変して「チョコレート」の語のみならず「ロッテ」の企業名を織り込むなど、明らかに〈明治チョコレート・テーマ〉が意識されているが、いずれも短調であることがこの時代における「チョコレート」の語の響きを切なくさせる。しばたはつみのヴァージョンが安定しているものの、奈良橋陽子の作詞によるその英語ヴァージョンとして吹き込まれた〈My Sweet Little Eyes〉は、完全にシティ・ポップス化していて秀逸。なお、1977年の『NHK紅白歌合戦』に〈マイ・ラグジュアリー・ナイト〉で初出場した際の対戦相手は〈愛のメモリー〉の松崎しげるだった。高橋尚子が出演しているキリンジの歌唱ヴァージョンも聴きごたえあり。



番外_3.〈パパとママとぼく〉(1979)  作詞/佐々木高子,作曲/小林亜星


名古屋を中心に東海地方で多くの店舗を維持していたユニーが、歌詞を一般公募するかたちで制作したイメージソング。店舗内で流れ、またテレビCMでも使用されたものの、おそらく東海地方以外ではほとんど耳にできなかったものと思われる。チョコレートのために歌われた楽曲ではないにもかかわらず、「ユニーで買ったチョコレート」のフレーズがいまなお胸に残る。惜しくもその音源の存在は確認できない。








文:堀家敬嗣(山口大学国際総合科学部教授)
興味の中心は「湘南」。大学入学のため上京し、のちの手紙社社長と出会って35年。そのころから転々と「湘南」各地に居住。職に就き、いったん「湘南」を離れるも、なぜか手紙社設立と機を合わせるように、再び「湘南」に。以後、時代をさきどる二拠点生活に突入。いつもイメージの正体について思案中。