あなたの人生をきっと豊かにする手紙社リスト。29回目となる音楽編は、「Yuming on the B side」というテーマでお届けします! 日本の音楽界に燦然と輝くアーティスト・Yumingこと松任谷由美(荒井由美)。ユーミンが生み出す楽曲の数々は、時代と共に………いや。彼女の楽曲が時代そのものと言えるかもしれません。多くの人に知られる曲(A side)はもちろんですが、知る人ぞ知る曲(B side)まで、堀家教授と手紙社のブインのみなさんと、一緒に味わっていきましょう!
この後、まずは手紙社の部員さんが選んだ10曲を紹介し、続いて堀家教授のコラム、その後に堀家教授が選んだ10曲を紹介します!
手紙社部員の「Yuming on the B side」10選リスト
1.〈ひこうき雲〉荒井由美(1973)
作詞・作曲/荒井由美,編曲/荒井由実、キャラメル・ママ
私が選んだユーミンの曲は〈ひこうき雲〉です。特にハンバートハンバートのカバーがお気に入りです。2人の澄んだ歌声と優しいギターの音色がとても曲の雰囲気に合っていて、何度も聴きたくなります。この作品の世界観をさらに堪能するのであれば、旅先の美しい自然の風景を眺めながら聴くのがおすすめです。 先日仲良しの部員さんと北海道を旅してきたのですが、目の前に広がる広大な景色を眺めながら聴く〈ひこうき雲〉は格別でした…! ぜひみなさんもお気に入りの風景を想像しながら聴いてみてください。
(ひーちゃん)
2.〈ルージュの伝言〉荒井由美(1975)
作詞・作曲/荒井由美,編曲/松任谷正隆
ジブリ作品「魔女の宅急便」のオープニングテーマでキキが旅立つ花向けとして、父が送ったラジオから流れてくる曲です。旅のお供のカーラジオならぬ箒ラジオ。軽快なリズムで始まる音楽は、これから始まる物語のワクワク感を高めてくます。歌詞の内容は全然ハッピーじゃないですが💦
(天空龍姫)
3.〈チャイニーズスープ〉荒井由美(1975)
作詞・作曲/荒井由美,編曲/松任谷正隆
私がこの曲を始めて知ったのは、音源ではなく小説の中の文章でです。バブル世代の女子なら一度は通るであろう、元祖ラノベ作家・新井素子氏の『ひとめあなたに・・・』という作品です。内容はざっくりいうと、隕石接近により地球の滅亡が確実となり、人類がパニックに陥るなかで、主人公がひとめ恋人に会うために旅に出る、というものです。主人公が出会う人々はみな正気の沙汰ではないのですが、その中の1人が、このユーミンの曲を口ずさんでいます。
この小説で曲を知るも、当時中学生だった私は音源を探すことはできず、初めてラジオから流れていたのを聴いたときには高校生になっていたと思います。全体的には、のほほんとした曲調ですが、サビ前の変調子に狂気を感じたことを覚えています(ちなみにこの曲を歌う登場人物の狂気は、この程度ではありません)。ところで、ユーミンは数々のドラマや映画の主題歌を手掛け、また既存の曲もジブリアニメなどで挿入歌としても使われていますね。この曲は小説の挿入歌として、絶大な効果と印象を残していると思います。
この小説は今でも文庫で読めます。口語表現が少し古臭いのですが、平成生まれの私の長女も読了後絶賛していましたし、この曲も聞いて感激していました。短編小説を重ねて長編小説になる構成も素晴らしいのでご存じない方はぜひ読んでみてください(って、曲の紹介文ですが・・・)。
(手芸愛好家)
4.〈翳りゆく部屋〉荒井由美(1976)
作詞・作曲/荒井由美,編曲/松任谷正隆
高校時代、体育会系かというくらいのスポ根の合唱部に青春を捧げていましたが、ある日、コンクールの課題曲とは関係なく、この曲の楽譜を渡されました。それまで知らなかった曲で、別れを迎えた相手の心を取り戻せない、それは死をもってしてもという意味の歌詞に衝撃を受けました。それから折に触れて心の中で流れる曲です。リクエストした際に他の部員さんに前奏の素晴らしさを聞き、再び聴き直すと、パイプオルガン! 更にこの曲が好きになりました。
(akane09)
5.〈14番目の月〉荒井由美(1976)
作詞・作曲/荒井由美,編曲/松任谷正隆
〈14番目の月〉はちょっとトッポい友だちの影響で「いいじゃん!」と思った曲。若い勢いがあったときには共感しか無かったけど、今になってはそうでもなかったろうに、と思うところもあります。でも今もその頃の仲間が集まると必ずコレを歌います。みんなで合唱です。トッポかった彼女は今も〈14番目の月〉が好きだと言うし、確かにまだまだ勢いがあってとても元気。見習わないと、と思うけど今の私は遠慮がちに上がってくる16番目の月、十六夜のほうがしっくりきます。でも〈14番目の月〉を聞くと、もう少し頑張るか、と思わせてくれます。
(3103)
6.〈埠頭を渡る風〉松任谷由美(1978)
作詞・作曲/松任谷由美,編曲/松任谷正隆
1978年に発売された12枚目のシングルとのことです。まずは圧倒的な印象深い曲調。歌謡曲という雰囲気を持ちつつ46年経った今も全く古臭く感じない。さすがユーミンだなと思います。そしてなんともミステリアスな歌詞のストーリー。登場人物は「私」と「あなた」。2人の関係性が恋人?ではない。友達?でもない。一線を超えてしまった元友達?? 彼には他に恋人がいて、上手くいっていない2人のすきあらば入り込もうと狙っているのが「私」なのかな? とても想像力を掻き立てられます。ワードのチョイスも秀逸で、第一声の「青いとばり」のワードが特に印象的で「ほうき星」「風を見た」の表現もすごく好き。教授の考察を伺うのが楽しみです!!
(kyon)
7.〈サーフ天国、スキー天国〉松任谷由美(1980)
作詞・作曲/松任谷由美,編曲/松任谷正隆
バブル全盛期のキラキラしたお兄さんとお姉さんが帰省と共に連れて帰ったこの曲。まだ田舎暮らしで野山を駆けめぐる妹にはまぶしくて。「レビューを見せに来る」とはなんぞや? と、都会な世界観の歌詞とテンポに衝撃と憧れを抱いた、私的ザ・ユーミンの1曲でございます☺
(大分の共子)
8.〈カンナ8号線〉松任谷由美(1981)
作詞・作曲/松任谷由美,編曲/松任谷正隆
明るい曲調の失恋ソングはユーミンの得意とするところで、〈カンナ8号線〉も明るい曲調と切ない歌詞が魅力的です。「思い出にひかれてああここまで来たけれども あの頃の二人はもうどこにもいない」のリフレインはただの失恋の哀しみだけではなく、諸行無常すら感じます。
(maipo)
9.〈青春のリグレット〉松任谷由美(1985)
作詞・作曲/松任谷由美,編曲/松任谷正隆
麗美さんに提供した〈青春のリグレット〉をセルフカバー。軽やかな助走のイントロから始まり、さわやかな曲かと思えば、実は夏のバカンスの恋、リグレット=後悔の気持ちを歌っています。4分間という短い時間の中で、彼女と彼の関係、それぞれの心情、二人を包む情景が浮かび、ぎゅっと詰まっている。「私を許さないで 憎んでも覚えてて」というフレーズ、ユーミンってやっぱり天才!
(あさ)
10.〈リフレインが叫んでる〉松任谷由美(1988)
作詞・作曲/松任谷由美,編曲/松任谷正隆
この曲は、車が高速道路を走るような音から始まるイントロに続いて、小刻みなキーボードのリズムに切ないユーミンの「どうして、どうして僕たちは出会ってしまったのだろう…」の声が重なって響く最初の数小節で心がググッと持っていかれます…。結構ヒットした人気曲ですが、アルバムが発表されてから10年以上経った頃だったと思います。ちょっと辛い恋愛をしていた時にこの曲がカーラジオから流れて来て、自分の思いを重ねてとても切なかったです…。もう時効が成立するほど昔の話なので断片的な記憶ですけれど…。真夜中の高速道路を走り、たどり着いた海辺の駐車場、この車から降りたらもう会うことは無いとわかっていて、ただ黙ってずっと車のシートに座り波の音を聴いていた…。そんな映像が脳裏に浮かんできて今聴いても切ない歌ですが、大好きな歌でもあります。
(ケイティ)
Yuming on the B-side
Yuming(a.k.a. YUMING_ブランドの創始者)
《YUMING BRAND》(1976)は、ユーミンにとって最初のベスト盤アルバムです。
旧来の歌謡曲とも、またフォークやロックともちがう新しい感覚の音楽を追求しながら、おそらくはその先進性ゆえに、彼女の登場はただちに大衆に歓迎されたわけではありませんでした。しかしドラマの主題歌への採用を契機として、ついに〈あの日に帰りたい〉(1975)がヒットします。そしてその翌年、〈返事はいらない〉(1973)を端緒に荒井由実の名義のもと発表されてきた音楽の新しい感覚を要約し、これを新参の聴衆に紹介すべく、このアルバム盤が発売されました。
換言すれば、それは“YUMING”とはなにかを簡便に定義し、これを音楽的に“BRAND”化する行為にほかなりません。
ところで、ここでいったん音楽的に、すなわち聴覚的に要約された“YUMING”という“BRAND”には、 松任谷由実の名義で発表された《NO SIDE》(1984)ではじめて商標が付与されます。
英語表記における“松任谷”の頭文字“M”と“由実”の頭文字“Y”とが、共通するv字式の切れ込み部分を重ねるように合体し、そのうえに頭部と思しき楕円の黒点を配して人型を模する“YUMING BRAND”のロゴ・マークがそれです。
アルバムの金地のジャケット表面では、その中央を占めるティファニー・ブルーの四角形がこのロゴ・マークで黄金色に型抜きされ、“YUMING BRAND”の輝きを放っています。ここでは、いまやティファニーにも比肩するおしゃれで高級なブランドとして、“YUMING BRAND”が純金にも劣らぬ価値を主張し、《NO SIDE》は、その商標を冠するにふさわしい“YUMING BRAND”の商品たることを誇示しているわけです。
のみならず、同包された歌詞カードの表紙には、彼女の氏名に由来するふたつの英字が合体してロゴ・マークへと変態していく過程が、4段階のコマ割りで表現されています。その最初の段階にあって、縦に配置された“M”と“Y”とは、縦書きされた“MY”、つまり英語における一人称代名詞の所有格のようにも思えてきます。そしてその変態の図解の横には「YUMING」の文字。私たちの視線の流れがこれらを系列化させ、「MY YUMING」と錯読したところで不思議はありません。
ただし、“松任谷”の“M”と“由実”の“Y”とを合体させたこのロゴ・マークは、それゆえ松任谷由実の所管であることを前提に“YUMING BRAND”の商標として機能するのであって、荒井由実を直接的に指示する記号としては機能しようもなく、彼女の独身時代の業績がいったんここから除外されることは不可避です。
あるいはむしろ、これは“松任谷”の“M”と“由実”の“Y”との合体ではなく、“YuMi”の“Y”と“M”、さらには“i”から合成された、文字どおりのユーミン印なのかもしれません。
いずれにしても、“YUMING BRAND”が、《YUMING BRAND》において聴覚的に、さらに《NO SIDE》において視覚的に提示されたことは、なんら疑いようのない客観的な事実です。
このことは、なによりもまず、《YUMING BRAND》が発表された段階で、“YUMING”という“BRAND”の名のもといったん総括できる程度には、ユーミンの音楽がかたちをなしていたことを意味します。
実際に、それまでに発売された3枚のアルバム盤である《HIKŌKI-GUMO》(1973)と《MISSLIM》(1974)、および《COBALT HOUR》(1975)には、〈ひこうき雲〉(1973)から〈やさしさに包まれたなら〉(1974)、〈海を見ていた午後〉(1974)、〈卒業写真〉(1975)や〈ルージュの伝言〉(1975)などが収録されています。
加えて、とうに〈あの日に帰りたい〉もシングル盤で発表されていたほか、のちに《14番目の月》(1976)に吹き込まれる〈中央フリーウェイ〉さえ、《YUMING BRAND》の発売より以前に、彼女のデビュー曲をプロデュースしたかまやつひろしとの共演でテレビ番組のなかで披露され、いっしょに歌唱している様子がいまも映像で確認できます。
要するに、こんにち誰もがユーミンの代表作として列挙できるようなこれら楽曲群は、そのほとんどが、《YUMING BRAND》の盤面に再録されているかどうかはともかく、このころまでにはすでに公表されていたわけです。
Yuming(a.k.a. 荒井由実_ジャンルの創造者)
やがて《14番目の月》を独身時代の最後の置き土産に、その発売からほどなく彼女は松任谷正隆と結婚します。つまり《YUMING BRAND》をもって表明された“YUMING BRAND”の聴覚的な確立とは、まさしく荒井由実の音楽の確立にほかなりません。
このことは、彼女のアルバム盤のジャケット表面でも示唆されています。《HIKŌKI-GUMO》や《MISSLIM》ではともに「YUMI ARAI」と記載されていた芸名が、《YUMING BRAND》に前後する《COBALT HOUR》や《14番目の月》では「YUMIN」ないし「Yuming」の体裁で記名され、ことに《COBALT HOUR》の場合には、まだ慣れない呼称の表記に当惑したかのように失念された「G」の文字が、申し訳なさそうに小さく書き添えられています。
ところが、《紅雀》(1978)では、婚姻の挨拶がわりに署名を模した「Yumi Matsutoya」の綴りが筆記体で披露され、松任谷由実への改名を登記するのです。
荒井由実の音楽性、その新しい感覚を要約し、これを新参の聴衆に紹介する《YUMING BRAND》は、“YUMING BRAND”のなんたるかを音響的に例示することによって、彼女のアルバム盤のなかで最大の売りあげを記録しました。いわゆる“第一次ユーミンブーム”に相当するこのとき以降、彼女の楽曲を聞く大衆の鼓膜には、その証として“YUMING BRAND”の印影が施されることになります。
荒井由実の音楽については、ユーミン自身が、単に戦後日本で生まれ育った若き同世代のための響きであるばかりか、それまでの日本の大衆音楽のどれとも似ていない新しいものであることを自負しています。レコード会社に専属の職業作家が書いた詞曲を職業歌手が歌ってきた従来の流行歌とは明らかに異なる一方で、自作自演とはいえ同世代のフォークやロックの連中の音楽ともちがう、いわば“ニュー・ミュージック”。
この語の初出についての疑義は承知のうえで、それでもなお、日本の大衆音楽には存在しなかった新しい表現様式を、“YUMING BRAND”の、あるいはむしろ“YUMING BRAND”という“ニュー・ミュージック”を荒井由実が創出したことは、いまや否定のしようもありません。
旧大陸の大衆音楽、とりわけ、 フランソワーズ・アルディに代表されるフレンチ・ポップスの華麗な切なさや、プロコム・ハルムに代表されるブリティッシュ・ロックの荘厳な陰鬱さが、その旋律やコード進行にははっきり反映されています。そのうえで、演奏でここに新大陸的な彩りを添えたのが細野晴臣の率いたキャラメル・ママであり、なかでもキーボード奏者の松任谷正隆が編曲家の立場で中心的な役割りを果たし、彼女とその音楽を支えていくことになります。
いまのようにインターネット上での配信が世界の各地で流行している大衆音楽を即座に教えてくれるわけではなく、欧米で発売されたレコードさえが容易には入手できなかった当時、輸入盤を扱うレコード店が原宿にあり、たとえば筒美京平はここの常連でした。
日本でもっとも売れっ子の作曲家として多忙ななか、筒美は、欧米のチャートで上位を占めた楽曲の音盤の冒頭にのみレコード針を落とし、再生しては次から次へと盤を交換し、聞き飛ばしていく仕方で、最新の音楽事情を聴きわけ、これに疎い日本で遅れて流行しそうな要素を自らの曲作の参考としていました。そんな彼のために、このレコード店は、一定期間のうちにチャートに入った楽曲の輸入盤をまとめて梱包し、彼の来店まで取り置きしていたといいます。
この店を訪れて梱包された盤を受領する際に、やはり同じような盤の包みがしばしば見受けられ、その発注の主を確かめたところ、松任谷正隆のものだったと筒美京平は述懐しています。欧米の最新の音楽事情を研究する松任谷の、当代随一の作曲家に勝るとも劣らない熱意と勤勉さは、そのままユーミンの音楽における新しさの一翼を担っています。
さらに村井邦彦や川添象郎らが、背後から荒井由実を支援します。その貢献は、婚姻相手の松任谷のように彼女の音楽に対して直接的に支援するかたちではなく、才気に満ちたその音楽性が日本の音楽産業のなかで十全に翼を広げられるように環境を整えたうえで、さらに彼女の世界観のありようを拡張させるべく投企されました。
Yuming(a.k.a. 松任谷由実_トレンドの発信者)
そうして、荒井由実の、鋭敏にして繊細な感覚が独自の世界を象っていく過程で、すでに大衆のものとなりつつあった彼女の音楽は、社会に対して波及する音楽産業の影響力をも膨張させていったのです。ここに至ってもはや“YUMING BRAND”は、単に“ニュー・ミュージック”を保証する独占性の商標であるばかりか、その音楽をとおして彼女の視点を、興味を、その生活を、人生を、要するにユーミンの世界を共有するための符牒となります。
松任谷由実の名義のもと最初に発表されたアルバム盤《流線型’80》(1978)では、余暇をめぐる楽曲が盤面の多くを占めています。〈ロッヂで待つクリスマス〉、〈埠頭を渡る風〉、〈真冬のサーファー〉、〈Corvette 1954〉、〈入江の午後三時〉、そして〈かんらん車〉。聴衆もしくは大衆の半歩前を先行するユーミンの千里眼は、日常生活のほとんどを差配する労働をその世界から排除し、これにともなう疲労や苦悩、金銭や計時を不問とします。
事実、《流線型’80》で提示されたユーミンの予兆は、《OLIVE》(1979)や《悲しいほどお天気》(1979)を経由しつつ、いったん《時のないホテル》(1980)に寄宿したうえで、まさしく《SURF & SNOW》(1980)のうちに露呈しました。
なるほど、労働にまつわる瑣末にして煩雑で、ときとして醜悪かつ下劣な、しかしそれゆえ現実的な諸要素が排除されたユーミンの余暇的な世界は、有産階級にのみ許された特権的な視点を前提とします。ただしおそらくそれは、とりわけ男女のあいだの恋愛模様をめぐって、歌詞の登場人物における心境の機微を焦点化するために、その摩擦となる不純物を濾過し、捨象した結果なのです。
聴衆ないし大衆における形而下的な現実からはいかにも乖離していたと思われる一方で、ユーミンのそのような世界観は、この乖離のゆえに彼ら彼女らが憧れ、焦がれる形而上の対象として夢みられたのです。確かにそれは、ひとつの幻想、ひとつの虚構にはちがいないでしょう。ことによると、それはユーミン本人にとってもどれほどか現実から乖離した幻想、虚構、夢であったかもしれません。
それでもなお、ユーミンの音楽とともにあって、いつの日か自分を登場人物としてこれが現実となることを夢みる瞬間それ自体が、どれほどわずかにであれ、労働にまつわる瑣末にして煩雑で、醜悪かつ下劣な諸要素からの不意の浮遊を担保し、彼ら彼女らにとって、さらにはユーミン自身にとってさえ、あの余暇的な世界への浸透を叶える唯一の手段となるのです。
〈サーフ天国、スキー天国〉(1980)に象徴される《SURF & SNOW》において、冬の余暇には「ゲレンデ」での「スキー」が、夏の余暇には「ビーチ」での「サーフ」が提案されます。併せて、「悩みごと」など「帰ってからの宿題」にするよう唆されもしますが、けれど「都会に置き去り」にされる当の「悩みごと」そのものも、ここでは「につまる恋」をめぐる事情にすぎません。生活のための不安を一顧だにする必要のない地平とは、まさしく「天国」のものです。
「スキー」であれ「サーフ」であれ、ともに円滑な表面を滑走していく運動の速度であることは重要です。高原の粗い山肌を覆う「雪」や荒れた深層の海流を隠す「波」の滑らかさを颯爽と滑走する速度となること。たとえ「恋」に由来するものであれ、汗の匂いを漂わせる形而下的なわずらわしさは、ここではもっぱら「雪」に覆われ、「波」に隠されて、「しばらく地球は止まってる」かのような不自然な「自然」ばかりが「レヴューを見せに来る」のです。
いわばここでの「天国」とは、「雪」や「波」を滑走する速度が、ついに自転する「地球」の速度と合致した瞬間の、一瞬にして永遠の世界への到達の謂にちがいないでしょう。事実、レコード会社が《天国のドア》(1990)の販売促進のために準備し、レコード店に配布されたチラシの最上部には、カラフルに彩られたこのアルバム盤の題目の次に大きな文字で、紙幅いっぱいを使って配置された「永遠をお探しですか。」の惹句が確認できます。
Yuming(a.k.a. 呉田軽穂_歌謡曲の創作者)
〈守ってあげたい〉(1981)の、角川映画『時をかける少女』の主題歌への採用を契機として、いわゆる“第二次ユーミンブーム”が到来しました。
筒井康隆による原作小説がSFジュブナイルだったこともあってか、これ以降、ユーミンの謳う“天国”は、リゾートの現場から《REINCARNATION》(1983)における超自然的な精神世界へと、あるいは《VOYAGER》(1983)における無重力の宇宙空間へと、その所在の位相を変転させます。地球上では余暇の「雪」や「波」に透明な滑らかさを借りた虚構化のもと、かろうじて脱臭されえた生活感は、いまやどこにもありながら誰にも踏破しえない場所たる精神の、宇宙の片隅で、もはやその痕跡を匂わせることすらできません。
これら精神や宇宙の次元にあっては、私たちを日常に束縛する空間の概念も時間の概念も無用化されることは不可避です。
他方で、こうした世界ないし“天国”の、現実社会への啓示とすべく、《流線型’80》が発売された1978年に葉山マリーナではじまった「YUMING SUMMER RESORT CONCERT」は、数年の中断と再開ののち、1983年からは夏の逗子マリーナに舞台を移し、「SURF & SNOW in 逗子マリーナ」として2004年には「vol.17」が開催されています。加えて、1981年からは、冬の苗場プリンスホテルを会場に「SURF & SNOW in 苗場」もはじまり、「vol.44」を迎えてなお継続中です。
これと並行する仕方で、そうしたユーミンの余暇のありようは呉田軽穂の名義をとおして松田聖子に移譲されます。〈赤いスイートピー〉(1982)にはじまり、〈渚のバルコニー〉(1982)から〈裸足のマーメイド〉(1982)まで、春から夏にかけて連続して呉田から松田聖子のシングル盤のために提供された楽曲は、まぎれもなくユーミンの世界観の分岐を表明するものでした。それまでユーミンがひとり先駆となって提示してきた有産階級な余暇の幻想は、わずかながら聴衆の日常を、その生活を侵犯しようとしています。
さらに冬が近づくなか、《金色のリボン》(1982)の松田聖子が《SURF & SNOW》から〈恋人がサンタクロース〉(1980)を援用するかたちで、この移譲はいよいよ確実に履行されました。
信奉者を“天国”へと導くユーミンの音楽は、松田聖子の歌声を、そしてときに松本隆の言葉の力を前景化させつつ、新規性と先鋭性のまろやかな描線を膨らませたわけです。巷間にもっとも流通する歌謡曲への敷衍のもと、より多数の聴衆の夢みるところとなった幻想や虚構の輪郭は、彼ら彼女らの現実の向こうに手を伸ばせば届きそうな鮮明さで透けています。
教祖の理念をわかりやすく口誦する代行者としての松田聖子の登場は、その説法を介してユーミンの教義を無産階級的な民衆の信仰の対象に位置づけました。それは、彼ら彼女らばかりか、ひいては社会そのものをも踊らせる調べとなっていきます。
余暇をめぐる世界観に関する布教活動を松田聖子による案内に移譲し、いったん世間から隠遁した教祖の雅号、すなわちこれが、ユーミン自ら命名した呉田軽穂です。実際に、こうした“天国”のありようは、もはや教祖ユーミン自身の手をわずらわせずとも、松本隆の作詞と、彼の盟友にしてキャラメル・ママの時代からユーミンの音楽性を支援した細野晴臣の作曲で、〈天国のキッス〉(1983)として花を咲かせます。
この路線から分岐したもうひとつの道の行方に、ユーミンは松任谷由実の名義による“YUMING BRAND”の“天国”を探究しつづけていきます。
《REINCARNATION》、《VOYAGER》、そして《NO SIDE》。“YUMING BRAND”を視覚的に商標登録したこのアルバム盤では、〈ノーサイド〉(1984)の笛の音をもって、超自然的な精神世界の探求と無重力的な宇宙空間の探索とのあいだに画された境界線が解消されます。それでもなお、〈SHANGRILAをめざせ〉(1984)と扇動することに余念のないユーミンは、〈SALAAM MOUSSON SALAAM AFRIQUE〉(1984)や〈破れた恋の繕し方教えます〉(1984)をとおして、探求や探索の鋒を原始的な人間性へと回帰させるのです。
“YUMING BRAND”の視覚的な形象化にあたって、その“天国”は人間のもっとも形而下的な事情、つまり感覚の源泉としての発生の起源にまで還元されることになります。
Yuming(a.k.a. ユーミン_しかしてその実体は…)
“YUMING BRAND”の視覚的な形象化とは、要するにユーミンの理念の聖像化にほかなりません。偶像は、具現する物質に対する過信を崇拝者に植えつけます。あれほど鋭敏にして繊細だった荒井由実の感性についても、ここに至って、どれほどか傲慢で強引な太々しさの印象を拭えません。
あれは、金銭をもって“天国”をも贖わんとする民衆の欲望を予見した教祖の苦悩の烙印だったのでしょうか。それとも、むしろこれを信奉者の成熟とみて積極的な帰依を期待する教祖の欲望の刻印だったのでしょうか。
バブル経済の到来は、かつて聴衆が夢みた虚構を、幻想を、ユーミンのあの世界観を、単に入手可能な商品の目録に加えたばかりか、現実の側で肥大する欲望の泡をもって、いずれそうした世界観もろともユーミンの楽曲を、ユーミンの感覚を、“YUMING BRAND”を、ユーミンの存在性や彼女の身体をも呑み込み、凌駕してしまいます。
もはや虚構を虚構として、幻想を幻想として機能させない現実の泡。まるで〈魔法の鏡〉(1974)のように、正対するものの欲望をその表面に反映しながらも、けれどこの皮膜のもとに庇護する実体をなにひとつ保持しないまま、もっぱら表面の滑らかな肌理ばかりが唯一の現実であり、唯一の具象でありつづけるような、無数のあぶくの集合体。
かつて《SURF & SNOW》で、汗の匂いを漂わせる形而下的なわずらわしさを覆い隠していた「雪」や「波」のものとはまったく異質の、空疎さそのものを抱いた泡の滑らかな表面は、自らを支えきれず弾け、霧散するまで、空疎さの露呈を遅延させ、夢みることまでも宙吊りにせずにはいません。“YUMING BRAND”の世界観も、このようにやがて泡の飛沫となって崩壊します。
欲しいものを消費するのではなく、欲しいという欲望そのものを消費の対象とすること。西武百貨店が、まだあどけなさの残る宮沢りえの姿態を借りて糸井重里に「ほしいものが、ほしいわ」と呟かせたのは、誰もがバブル経済に浮かれた1988年のことでした。
まさにバブル経済がそうだったように、《ダイアモンドダストが消えぬまに》(1987)から《Delight Slight Light KISS》(1988)、《LOVE WARS》(1989)、そして《天国のドア》(1990)へと、この時期の松任谷由実のアルバム盤は、ひたすら数値ばかりを空虚に積みあげていきます。
もっとも形而上的であるはずの数値の概念、とりわけ空集合としての“0”の個数が、もっとも形而下的な物質性として、彼女の音楽を象る実体として訴求されたのです。
ところで、〈海を見ていた午後〉で、あの「ソーダ水」の「小さなアワ」が「恋のように消えていった」瞬間とは、まったくもってユーミン的な出来事でした。鋭敏にして繊細な、それゆえいかにも儚い、あのもろさの感覚。
「恋」が泡のように「消えていった」のではなく、あくまでも「小さなアワ」の側が、まるで「恋のように消えてい」きます。そこでは「恋」が「消えてい」くことについて、なんの躊躇もありません。なぜなら、ユーミンの世界にあっては、「ソーダ水の中」の「小さなアワ」よりもはるかに多くの「恋」が生まれ、「消えてい」くからです。こうした「恋」の始末が、ここには平凡な炭酸の「小さなアワ」より以上にありふれています。
あるいは、〈手のひらの東京タワー〉(1981)が描出した、高揚のあまり「なんでも手に入る気が」した「愛」の万能感のもと、バブル経済の到来を予知するように「世界中が箱庭みたい」に思えてしまうとき。
しかしながら、「東京」の「夕」景、「東京タワー」が屹立する都市の「パノラマ」を所有することは、結局のところ「私」の「夢」にすぎません。彼女が所有することを許された「東京タワー」の輝き、彼女の「手のひらに包」まれた「本当」、それは、たちどころに「金色のエンピツ削り」の、愛らしくも慎ましい現実感へと回収されてしまいます。
なにより、ユーミンが松任谷正隆とともに設立した雲母社における、“雲母”の字面、“きらら”という音響、これらをとおして意味されるあの鉱物のイメージは、彼女の感覚の独自性を、その音楽に固有の感傷を、いかにもみごとに表象しています。新鮮で、上品で、平滑で、清潔で、柔和で、陰鬱で、儚く、もろく、けれどどこか懐かしく、なぜか胸を締めつけるような、切ないきらめきの結晶化。
たとえば〈9月には帰らない〉(1978)で「夏の日のはかなさ」を表現した「潮騒」は、いつでも海がそこにあるように、いつでもそこにある海のように、なにげない日常がどこまでもつづくことの奇跡を謳います。まさしくこうした感傷にユーミンの真価は存しているのであって、たとえどれほど高く“0”の個数を積みあげたところで、空虚な数値にそれが反映できようはずもありません。
「スタイルなんてどうでも」よくて、ただ「あなたらしけりゃ最高」だと告げる〈サーフ天国、スキー天国〉。「エラーの名手」なのに「草野球」に「夢中」の「あなた」が「まぶし」く「見」えた、〈まぶしい草野球〉(1980)。〈ずっとそばに〉(1983)の場合には、「きみらしいフォームでゆっくりと泳いで」と諭されもするでしょう。
祭りの喧騒の長すぎた余韻がようやく醒めたいま、無理も背伸びも必要のない、日常にありふれた、あたりまえの、そしてだからこそ安寧な光景の普遍性、そこに身を委ねた瞬間のうちに不意に感覚される永遠こそが、ユーミンの天才が私たちに預けてくれる賜物にちがいないのです。
私の「Yuming on the B-side」10選リスト
1.〈魔法の鏡〉荒井由実(1974)
作詞・作曲/荒井由実,編曲/荒井由実,キャラメル・ママ
〈やさしさに包まれたなら〉B面に収録。歌いはじめの「魔法の鏡を持っていたら」のフレーズにおけるⅥm-Ⅱm-Ⅴ-Ⅰ(ⅰm-ⅳm-ⅶ-ⅲ)のコード進行は、過日逝去したフランソワーズ・アルディの〈Comment Te Dire Adieu〉の歌いはじめを容易に連想させる。このありふれたコード進行も、たとえば藤井風の〈grace〉でのサビの場合がそうだったように、使いかた次第では聴き手に深遠な感銘を与えうる。〈私のフランソワーズ〉で憧憬を隠そうともしないユーミンがそうして彼女の楽曲から体得したことが、従来の歌謡曲の響きを刷新し、爾後のそれの規範となるユーミン式の作曲術を基礎づけている。江口寿史の一篇でもオマージュされた〈魔法の鏡〉には、早乙女愛によるカヴァー版も存在し、竜崎孝路によるいくぶん古めかしい歌謡曲的かつフォーク的な編曲に糊塗されるものの、しかし若き荒井由実が開拓しつつあった新しい歌謡曲の息吹きはそこでも確実に感じられる。
2.〈白いくつ下は似合わない〉アグネス・チャン(1975)
作詞・作曲/荒井由実,編曲/あかのたちお
職業作詞家に転身した松本隆を成功に導いたり、早くからキャラメル・ママやムーンライダースを演奏に迎えるなど、アグネス・チャンが当時の日本における新しい音楽の発掘に積極的だった事実は、平尾昌晃の推挙により渡日デビューする以前に、すでに故郷の香港で彼女が英米流の大衆音楽の最前線に親しんでいたことに由来するのだろう。同様の文脈のもとユーミンによる書きおろしとなったこの楽曲にあって、Ⅵm-Ⅱm-Ⅴ-Ⅰ(ⅰm-ⅳm-ⅶ-ⅲ)のコード進行は、「歩道橋の上でよりそって」と歌唱されるサビの旋律を支持すべく響く。そうして「私」と「あなた」をいったん「歩道橋の上」に置き、そこから「並木道」を「見下ろ」させることによって、同時にユーミンは、「並木道」から「歩道橋」を、いわば低い客席から仰観する視座の獲得を聴き手の側に担保する。この「歩道橋」とはまぎれもなくアグネス・チャンの歌唱するステージであり、そこから彼女が「見下ろし」た「並木」、それは、客席に列をなす観客、すなわち彼女のファンの謂である。視線を介したこうした仕掛けが、長く伸ばした直毛を真ん中でわけた髪型や厚底の靴とともにアグネス・チャンの商標だった「白いくつ下」を、「並木」たちの視座をめぐる仰角の位置に配し、彼らの狭い視野を覆って象徴的に機能させる。しかも彼女は、自らの将来を予見したかのように、これを「もう似合わないでしょう」と自問し、彼らにもそう問いかけるのである。
3.〈二人は片想い〉ポニー テール(1976)
作詞・作曲/荒井由実,編曲/鈴木慶一
この楽曲は、のちに”Rajie”の名でソロ・デビューする相馬淳子らがポニー テールから脱退してほどなく発表された。発売の直前には大瀧詠一が吉田美奈子に〈夢で逢えたら〉を提供しており、ここでの鈴木慶一の編曲によるフィル・スペクター風の音響処理は、まさしくそれに共鳴したものといえるだろう。やはり同時期に発売されたポニー テールのアルバム盤では、鈴木のほか、ムーンライダース名義のもと《火の玉ボーイ》に集った岡田徹や椎名和夫も編曲に参加している。ユーミン自身が歌詞を書き換え、松任谷正隆の編曲による〈昔の彼に会うのなら〉として吹き込まれたカヴァー版が《PEARL PIERCE》に収録。
4.〈白い朝まで〉松任谷由実(1978)
作詞・作曲/松任谷由実,編曲/松任谷正隆
ユーミンの活動のなかでも、その全篇をとおしてラテン音楽のリズムを基調に据え、いわばテーマを音楽的に一貫してみせた唯一のアルバム盤である《紅雀》にあって、この楽曲はボサノバの香りを纏う。ただしナイロン弦のギターは、テンション系の繊細なコードをボサノバの律動をもって塊のまま推移させるわけではなく、アルペジオで各弦が分散的に爪弾かれることによって、その香りを相応に希薄化する。そうしてホルンやストリングスと絡み、まどろみながら、「夜」が明けて次第に「闇」の「うす」まっていく「都会の公園」での「小雨の朝」の、肌寒く、物憂く、気怠く、それでいて清廉な訪れを的確に表現する。
5.〈まちぶせ〉石川ひとみ(1981)
作詞・作曲/荒井由実,編曲/松任谷正隆
当初は三木聖子に提供されるも、大きなヒットにはつながらないまま埋没していたこの楽曲は、歌唱者を石川ひとみに変更することで〈守ってあげたい〉以降の第二次ユーミン・ブームの嚆矢となった。ユーミン式の歌謡曲の規範であるあのⅥm-Ⅱm-Ⅴ-Ⅰ(ⅰm-ⅳm-ⅶ-ⅲ)のコード進行は、ここではAパートにおける「のぞいた喫茶店」の箇所のほか、サビの「好きだったのよあなた」の箇所でも繰り返し重用される。作詞、作曲、編曲、歌唱、これらいずれの要素のいずれの部分をとっても完璧というほかない、歌謡曲史上に燦然と輝く名曲。
6.〈Night Walker〉松任谷由実(1983)
作詞・作曲/松任谷由実,編曲/松任谷正隆
嘯き、強がることも忘れてこれほどまでに弱々しくおのれの足どりを「雨」に濡らすユーミンの主人公を、およそほかに思い出せない。楽曲を構成するほとんどのコードにそれぞれ7thの音が付帯するなか、Aパートの冒頭やサビの冒頭などの要所に配されたⅠmaj7とⅣmaj7の響きは、ときに連鎖しつつ、けれどわけても主旋律がⅣmaj7から歌いはじめられることで、彼女の悲愴を印象づける。加えて、サビの終盤でにわかに高揚する「ひとに云わないで」の旋律は、そうした悲壮をいかにも実直に訴えるだろう。《REINCARNATION》所収。
7.〈ずっとそばに〉松任谷由実(1983)
作詞・作曲/松任谷由実,編曲/松任谷正隆
原田知世に提供された〈時をかける少女〉のシングル盤B面にも吹き込まれたこの楽曲は、すでにユーミン本人による歌唱をもって《REINCARNATION》に収録されていた一方で、A面の〈時をかける少女〉の側は、のちにユーミン本人の歌唱によるカヴァー版となって《VOYAGER》に収録される。ヴォイジャー2号と1号の打ちあげ成功をとおして1977年についに実現したヴォイジャー計画のもと、1980年には1号が土星に最接近のうえ付近を通過し、また1982年のコロンビア号によるスペース・シャトル実用飛行、および1983年のチャレンジャー号や1984年のディスカヴァリー号の導入から、あの1986年のチャレンジャー号の不幸な爆発事故の衝撃とともにハレー彗星の地球への最接近を迎えるなど、地球の表面上を探索し尽くした当時の科学技術の関心は、もっぱら地球の外側、すなわち宇宙に注がれていた。ジョージ・ルーカスやスティーヴン・スピルバーグらによるSF映画作品群の成功が、単に科学技術の現場のみならず一般大衆のあいだでもそうした関心を共有することを促したこの時代、日本においても、筒井康隆のSF小説を原作に、大林宣彦の監督により『時をかける少女』が映画化された。主演の原田知世が主題歌として歌唱する〈時をかける少女〉では、「愛」は「過去も未来も星座も越え」て「輝く舟」となり、「空」は「宇宙の海」とみなされる。しかしながら、いかにもSF的な、それゆえいかにも大仰で虚構的なその世界観よりも、慎ましくもささやかな〈いつもそばに〉の日常性のほうが、普遍的なぶんよほど「時を かけて行く」感を漲らせて好ましい。旋律の着想源はビージーズの〈How Deep is Your Love〉か。同様にこれを着想源としたと思しき楽曲に、たとえば堀ちえみが歌唱した〈私小説〉があるが、ユーミンの場合にせよ堀の場合にせよ、類似する歌いだしから展開されていく旋律の行方に、歌謡曲における創造性のなんたるかを聴くべきだろう。Ⅵm-Ⅱm-Ⅴ-Ⅰのコード進行は、〈いつもそばに〉にあってもA’パートとサビをつなぐBパートに挿入されるものの、ここではイ長調のA’パートから同主調で転調したイ短調におけるⅰm-ⅳm-ⅶ-ⅲとして機能し、再びサビでイ長調へと回帰することによって、暗い海底に届く光のきらめきのような希望を象り、重い雲間から差す光の輝きのような安堵をかたちづくってみせる。
8.〈霧雨で見えない〉麗美(1984)
作詞・作曲/松任谷由実,編曲/松任谷正隆
楽曲の提供や編曲、プロデュースなど、松任谷夫妻の肝入りによる全面的な支援を受けてデビューした唯一の歌い手である麗美の最初のアルバム盤、《REIMY》に収録された良曲。ほどなくHi-Fi SETが、さらにはユーミン自身もこの楽曲を吹き込んでいるが、麗美のこの版がオリジナルとなる。サビの旋律の起伏やストリングスの絡みかたなどは、前年に伊勢正三が伊藤つかさに書きおろした〈雨の土曜日〉を想起させもするが、類似はおそらく偶然であって、伊藤の「雨」のほうがより大粒で湿度も高い。相応の期待をうかがわせた夫妻の庇護のもとから独立したのちに、麗美はREMEDIOSの名義で〈Forever Friends〉を発表している。
9.〈DOWNTOWN BOY〉松任谷由実(1984)
作詞・作曲/松任谷由実,編曲/松任谷正隆
たとえばこれに数年先行して発表された佐野元春の疾走感あふれる〈ダウンタウン・ボーイ〉では、「明日からのこと」が「解らないまま」で「毎日が迷子のアクロバット」の「Down Town Boy」たちにとって、「疲れた心」で「この街」の「夜」を漂う「Runaway」は確かに切実なものと思われた。他方で松任谷由実の〈DOWNTOWN BOY〉については、「兄貴」だの「不良」だのといった語句の響きや、はたまた「工場裏の夕陽の空地」だの「宝島だった秘密の空地」といった文句が惹起するイメージが、バブル前夜にしては前時代的で、どこか郷愁を頼ったきらいは否定できない。かつて〈中央フリーウェイ〉が描出してみせた都市郊外の光景の眩いまでの新鮮さは、すでにそこでは喪失されてしまった。それでもなお、ユーミンは、「思い出」も「未来」も、そして「あなた」のことも「あきらめない」。《NO SIDE》所収。
10.〈さよならと言われて〉松本典子(1985)
作詞/銀色夏生,作曲/呉田軽穂,編曲/松任谷正隆
シカゴによる〈Hard to Say I’m Sorry〉の前奏を拝借しつつ、ここでは生ピアノが電気ピアノ系の響きに差し替えられている。鋭利な音のきらびやかさの加減と録音時期とを考慮するに、松任谷正隆お得意のRhodesのエレクトリック・ピアノではなく、おそらくYAMAHAのDX7のものだろう。ユーミンのペン・ネームである呉田軽穂の作曲だが、この名義による松田聖子へのシングル曲群の提供以降、自らの歌唱で吹き込む可能性のある楽曲を提供する場合には松任谷由実の名義を、その見込みがなくあくまでも歌謡曲作家として詞曲を提供する場合には呉田軽穂の名義を、ユーミンは適宜使いわけていた。作詞の際の世界観の設定や作曲の際の音域の制約、歌い手の声質の考慮など、こうした前提次第で創作内容を形而上的および形而下的に限定する要件が発生するからだろう。松田聖子と同じCBS SONYと契約していたことも、松本典子を松田聖子の延長線上に措定し、それに準じた扱いとする理由となったかもしれない。大沢誉志幸の〈そして僕は途方に暮れる〉の作詞者として、独特の言葉の選択と配置の感覚から一躍注目を浴びた銀色夏生は、のちにやはり大沢に提供される〈クロール〉の歌詞が展開するイメージの前兆を、ここに「さよならの海」での「あざやかなクロール」のかたちでもたらす。その光景は、たとえば〈そばにおいて〉における「きみらしいフォームでゆっくりと泳いで」のフレーズと共鳴するにちがいない。
番外_1.〈ベルベット・イースター〉荒井由実(1973)
作詞・作曲/荒井由実,編曲/荒井由実,キャラメル・ママ
《HIKOŌ-KI GUMO》に収録。ユーミンの数多い雨の楽曲のなかでも雨雲がもっとも重く空を覆った事例であろうが、この最初のアルバム盤には、そもそも天気や空気への関心が充満している。部分転調というよりも、ハ短調とト短調のふたつの調性が互いを組み込みあって共存しているようなコード進行や、雲ではなく「空がとってもひくい」と表現する言語感覚の機微など、彼女の天才が凝縮されたこの楽曲については、「歌謡曲に降る雨」(2021年6月号)のテーマのもとすでに「手紙社リスト」入りしているため、ここでは番外とした。
番外_2.〈9月には帰らない〉松任谷由実(1978)
作詞・作曲/松任谷由実,編曲/松任谷正隆
《紅雀》に収録。「9月」の感傷をこれほどまでに的確に表現しえた楽曲を他に知らない。地味な小品ゆえになにひとつ身がまえるところのない率直さでもって、ユーミンの才能が十全に発揮された、佳作にして真の傑作であろうと個人的には考える。「無口な人」にはきっと「うまく言え」ない「夏の日のはかなさ」が、「潮騒が重すぎ」る海辺で「バスの窓おろす」行為をとおして凝縮されるとき、そこには加山雄三の〈湘南ひき潮〉や大貫妙子の〈海と少年〉、杉山清貴&オメガトライブの〈君のハートはマリンブルー〉や菊池桃子の〈青春のいじわる〉が誘引され、多面的に結晶化する。「秋の歌謡曲について私が知っている二、三の事柄」(2022年10月号)のテーマのもとすでに「手紙社リスト」入りしているため、ここでは番外とした。
文:堀家敬嗣(山口大学国際総合科学部教授)
興味の中心は「湘南」。大学入学のため上京し、のちの手紙社社長と出会って35年。そのころから転々と「湘南」各地に居住。職に就き、いったん「湘南」を離れるも、なぜか手紙社設立と機を合わせるように、再び「湘南」に。以後、時代をさきどる二拠点生活に突入。いつもイメージの正体について思案中。