これは、「手紙社の部員」のみなさんから寄せていただいた“お悩み”に、文筆家の甲斐みのりさんが一緒になって考えながらポジティブな種を蒔きつつ、ひとつの入り口(出口ではなく!)を作ってみるという連載です。お悩みの角度は実にさまざま。今日はどんな悩みごとが待っているのでしょうか?



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第21回「40代を前にして出産への思いや仕事を巡る“生きがい”とどう向き合う?」


月刊手紙舎読者のみなさん、こんにちは。

年が明けてから時間が過ぎるのが早い……というもどかしい思いとうらはらに、待ち遠しくもあった3月がやってきました。春の光や暖かさが恋しくて、月が変わってちょっとほっとしています。個人的に今月は慌ただしい日々が待っていますが、楽しみなイベント(東京の紙博!)や九州出張もあるので、快く過ごせたらと思っています。

今月は、えむさんからの相談です。



相談者:えむさん

理想と現実のギャップ、30代女性が誰もが感じることかもしれない。生活の変化で起こる友達との価値観の差。嫉妬が人付き合いを疎遠させ、孤独になる。それがたとえパートナーがいたとしても……。

私は結婚してまもなく9年を迎える39歳です。仕事は保育士。子どもの頃からの夢はお母さんになることでした。30歳で迎えた結婚。いよいよ母になる現実が増し、生活環境を整えるため、フルタイムの幼稚園教諭を引退し保育士の非常勤に。半日仕事をして、家事をこなすことが何よりの充実感でした。

ひとつ心配だったのは若い頃から婦人科系の悩みが尽きなかったこと。生理痛の酷さから24歳の時初めて婦人科を受診し、卵巣嚢腫が発覚。部分切除で生理は軽くなり、手術を受けて良かったとは思っていたものの、出血量が多いことは悩みの種でした。結婚から半年、なかなか妊娠できないこともあり再度受診。子宮筋腫を摘出したほうが早い段階で妊娠できるかも、と期待を背負って開腹手術を受けました。そして出血量が減ったので、早い段階で不妊外来を受診しました。必要な検査を夫婦で受けてタイミング法を数回。次は投薬しながら卵胞を育てて人工受精を数回。1年後には初めての体外受精に挑むため採卵。卵胞チェックに週に何度も通院し、内診され、希望を持って受けた体外も空振り。そこから7年、転院を繰り返しながら不妊治療と向き合ってきました。

そんな最中、周りは妊娠、出産、ましてや2人目……。そんな情報から耳を塞ぎたくなり、自分から距離を置くようになってしまいました。パートナーとは休みも合わず、仕事の忙しさゆえ、治療の話も立て続けになるとあからさまに機嫌が悪くなります。定期的にあった夜のスキンシップもなくなり、気まずい雰囲気が続く日々……。

「治療から少し離れよう。」 半年間治療のことを考えずに、病院に通いつめていた時間は趣味の時間にあて、ちょっと気持ちに余裕ができたらまた治療を再開する気になりました。

そんなことを繰り返しながら早8年。40手前にして人生の在り方を考えています。治療を始めた時は妊娠~出産がゴールと思い込んでいました。納得するまで治療を続けようと意気込んでいました。けれど、現状は何も進歩しないままで納得も何もやめるきっかけを失っている状態です。足踏み停滞している現状が嫌。環境を変えたい。

周りも歳を重ねて子どもを取り巻く環境に悩み始めています。一方で、独身キャリアウーマン人生を歩む友達がキラキラして見えたりします。

今の私には何があるのでしょう?

パートナーはそれなりに経験を積み役職に付いて自立しています。私はただの家政婦? 子どもがいなくても、思い描いていた夫婦生活じゃなくても、私は私の生きがいが欲しい。

行動に移すにも資金が必要です。子どもから離れたいのに毎日保育園に通わなければいけない日常。キャリアを積むには自分が手にすることのできなかった子どもの未来と向き合わなければなりません。離れない不妊うつと嫉妬の感情。隣の芝生は青くみえるものですね。

行き場のないもやもやと切り替えられない生活の中、誰かからの言葉や考える力が欲しく、投稿させていただきました。



正直なことをお伝えすると、えむさんの、“剥き出し”と言ってもいいような素直な言葉や感情を読み、しばらくの間、頭の中が真っ白になりました。えむさんの肩を抱く前に、自分の中で蓋をしていた苦しさが溢れ出そうになって、どうしたらいいのか分からなくなったのです。


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40歳代の私の個人的な実感ですが、「40歳前後で子どもがいないこと」「妊娠初期」「不妊治療」「流産」は、触れてはいけないこととして扱われています。もちろん個人個人で異なる思いや事情を抱えているので、決してひとまとめにはできません。その上で、いずれのことも多くの方にとって辛い思いをともなうために、思い出したくない、おおやけに話したくないというのがほとんど。自ら進んで検索をしない限り、他者の経験を知る機会はなかなかありません。

私も自分以外を知らないときは、「どうして自分だけこんなことに」とふさぎこんでいました。けれども、あまりに苦しくて身近な人に伝えてみると、「実は私も」と自分自身のことを話してくれて、やり場のない思いを分かち合ったことがあります。

不妊治療や流産という体験を詳細に綴った吉川トリコさんのエッセイ集『おんなのじかん』を読んだときにも、ちょっと気持ちが救われました。自分自身が積極的にならなかったからなのですが、親しい友人ですら、詳しい経緯や気持ちを語ることも聞くこともなかった。「自分だけじゃない」と知ることが、先へ進むための答えとまではならずとも、もつれていた気持ちがちょっと緩くなるきっかけになりました。




えむさん、嫉妬、孤独、不妊治療の鬱、行き場のないもやもやをさらけ出すのは、大きな勇気を要したはずです。こうしてさらけ出さないと、辛くて苦しくてどうしようもない、心の叫びが聞こえてきました。一度は頭の中が真っ白になりましたが、今目の前にえむさんがいたら、静かに肩を抱きたいです。私だけでなくえむさんに対してそう思う人は、目に見えずともたくさん、本当にたくさんいるはずです。

この先の不妊治療の選択、パートナーとの関係性、保育園の仕事。どう進んでいくかは、えむさん自身にしか出せない答えで、具体的なアドバイスができずに申し訳ない限りです。

私も、私に自分のことを話してくれた友人も、私が本を読んで救われた吉川トリコさんも、苦しくて辛いところから、自分なりの答えを見つけて、少しずつ前に進んできました。


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でも本当は私はまだだめです。トリコさんのように自分のことを書くこともできず、えむさんにも具体的な何かを伝えることができません。それでも、進んではいます。思い出さない日が増えてきました。バカみたいに笑って過ごせるし、楽しいことにも溢れています。今は「私ばっかり」とは思いません。自分を支えてくれる人がそばにいて、決して孤独ではありません。えむさんの気持ち、もちろん全てではないけれど、分かったつもりでいます。闇のような場所から抜け出せたけれど、誰かのちょっとした言葉に勝手に傷つくことがあります。えむさんも傷つくことがあると思います。それでも、変わりたい、抜け出したいと心から思う人は、絶対に変われます。

私は、心の中が嫉妬や孤独でいっぱいのえむさんでいてほしくないです。自分も嫌だし、人がそうであることも嫌。子どもがいてもいなくても、思い描いていた通りの夫婦生活ではなかったとしてもまた別の関係性を見つけ出して、えむさんはえむさんの生き甲斐を見つけられるんです。人と同じじゃなくていい。一般的な世の中の価値観に自分を当てはめすぎずに。一日の中で少しずつ「よかった」「らくだな」「楽しいかも」ということを増やしていってほしいです。数秒、数分でも。




ちなみに私は心が浮かないとき、推し活(パンやお菓子や包み紙や旅や散歩や建築や……)の他に、好きなお笑いを見たりして、強引に笑う時間を作ります。ドラマ「カルテット」の「泣きながらごはんを食べたことがある人は生きていけます」という言葉を信じて、どうしようもなく泣きたいときはがつがつとごはんを食べます。

たとえばもしも季節が変わって夏頃になっても、今と同じくらいの行き場のないもやもやを抱えていたら、もう一度、こちらに気持ちをお届けください。もちろん、気持ちの変化をお伝えいただいても。自分の幸せは自分で決める。えむさんの幸せはえむさんだけが決められることです。


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甲斐みのり(かい・みのり)
文筆家。静岡県生まれ。大阪芸術大学文芸学科卒業。旅、散歩、お菓子、地元パン、手みやげ、クラシックホテルや建築、雑貨や暮らしなどを主な題材に、書籍や雑誌に執筆。食・店・風景・人、その土地ならではの魅力を再発見するのが得意。地方自治体の観光案内パンフレットの制作や、講演活動もおこなう。『アイスの旅』(グラフィック社)、『歩いて、食べる 東京のおいしい名建築さんぽ』(エクスナレッジ)、『地元パン手帖』(グラフィック社)など、著書多数。2021年4月には『たべるたのしみ』に続く随筆集『くらすたのしみ』(ミルブックス)が刊行。