イラストレーター・いのうえ彩さんにお話をうかがいました

古い洋書の挿画のような、細やかながらノイズの多い線。大胆で少しなつかしい、レトロな配色。

いのうえ彩さんの描く絵には、ハッと視線をとらえ、すみずみまで目を凝らして眺めたくなる魅力があります。




一体何で描かれているんだろう? 見覚えがあるのに、思い出せない。そんな独特の線の正体は「ガリ版」です。

正式には「謄写(とうしゃ)版」と呼ばれるその道具は、昭和初期〜中期ごろ、主にプリントなどの学校印刷に用いられていた日本生まれの簡易印刷機。ロウ引きした紙をヤスリ板にのせ、「鉄筆(てっぴつ)」と呼ばれる筆記具を使って絵や文字を描くと、印刷の原紙となる製版ができるものです。「ガリ版」という呼び名は、鉄筆とヤスリがこすれる「ガリガリ」という音から。いのうえさんの作品はすべて、このガリ版で描いた絵を元に制作されています。

今では道具を見つけることさえ困難になったこの印刷技法に、どう出会い、なぜ惹かれ続けているのでしょうか?




古道具屋でつまずいた瞬間に

「昔、小学校の先生のお手伝いでガリ版でプリントを刷ったことがある」 という母の思い出を頼りに、名前だけは知っていた「ガリ版」になぜか惹かれていたという、いのうえさん。ネット上の情報も少なければ、実物を見ることも叶わない中、唯一できることは、古道具屋やリサイクルショップを定期的にのぞくことでした。

いつしか、本命のガリ版探しには期待せず、古家具や古道具を集めることがいのうえさんの暮らしの楽しみに。ある日、いつもの古道具屋でレトロな書類棚を購入して店を出ようとしたその時、来た時には何もなかったはずの場所で、つまずきました。 「ああ、あぶないあぶない」 何につまずいたのかと足元を見ると、そこには古い、ボロボロの木箱がありました。






“それ”が何か。確かめるより早く、「どうしようもなくドキドキしていました」といのうえさんは語ります。

「廃校になった学校から、ちょうど今引き上げてきたんですけど、これが何か、使えるのかも、ちょっと分かりませんね〜」 そう話す店員さんに、いのうえさんは言いました。 「もう、何かわからなくてもいいので、これ、いま買ってもいいですか」

それが、長年恋焦がた「ガリ版」をいのうえさんが手にした瞬間でした。 探しはじめてから、5年以上が経っていました。




ガリ版の線は無数の遺伝子

「遺伝子ように無数の情報が秘められた、今までに見たことのない種類の線でした」 ガリ版の線を、いのうえさんはそう表現します。

小さく揺らぎ、予測不可能で、雑音が多く解像度が荒い。けれど、一見不必要にも不純物にも見えるいくつもの粒子が、豊かなメッセージとなって、自分の絵に命を与えてくれるのを、目の当たりにしました。

ガリガリと線を引いているあいだ、「一切の不安も憂鬱も消えてしまう」といのうえさんは言います。「トラが無心で爪を砥ぐみたいに」と彼女が語るその時間、本能的に描くことを欲し、アウトプットすることで、無数の遺伝子はクロワッサンになり、スープになり、メリーゴーランドになります。描かれるモチーフは、日常の中で心が動いた身近なもの。「ああ、きっとこれを描くんだろうなぁ」とどこか他人事のように感じつつ、その予言(?)はすぐに、ガリガリと現実になるのだそうです。

「ラフや下書きはせず、描き直しもしないので、一度しか描きません」
と言ういのうえさん。

オフセット印刷やレトロ印刷の作品も、原画をガリ版で描いてから制作しますが、ロウ紙に鉄筆でいきなりガリガリと描きはじめるので驚かれるそう。

「もしかするとわたしはどこかで、”一番最初のもの” を信じているのかもしれませんね」





一番最初に心の扉を開くもの

古道具屋でコツンとつまずいたことが引き寄せた、ガリ版との出会い。 はじめて線を引いた時に感じた、無我夢中の心。

”一番最初”に心揺さぶられた瞬間に正直に、純粋にしたがうことで、いのうえさんの絵の世界は築かれていきました。




まもなく始まる個展のタイトル『ふゆごもり』は、かつて、彼女がさまざまなものを失ってしまったある時期に、愛犬のラブラドールレトリバーとともに過ごしたひと冬の記憶から、名付けられたものです。目的もなく部屋にこもる日々の中で見つけた、甘く、やさしく、温かいものごと。それらを掬いあげるように描く。長い冬が終わり、春が訪れた時、いのうえさんはイラストレーターとして歩み始めました。冬眠していた心の扉を開いた”一番最初のもの”が今も、いのうえさんの原動力になっているのです。








ノスタルジックでガーリーな印象のいのうえ彩さんの絵。その甘さを味わうとともに、一人の絵描きがガリ版に出会った瞬間の物語や、その線に宿る無数の遺伝子、冬ごもりの日々の孤独とぬくもりにも、想像を巡らせてみてください。あいらしさの奥にある、強さや儚さにもきっと、心を動かされるはずです。(文・大橋知沙)








いのうえ彩(いのうえ・あや)
京都生まれ。市内の美術工芸高校で日本画を学び、卒業後渡米。カリフォルニアの芸術大学に4年間留学する。当時のことを「人生の大半の憂鬱と迷いと危険と寂しさをぎゅっと濃縮して詰め込んだような4年間」と振り返るほどの低迷期。帰国後、冬ごもりの期間を経てフリーランスのイラストレーターに。2019年福岡に移住。二つの海に囲まれた家で暮らす。

Web Site:http://www.ayaipaper.jp/
Instagram:@ayai20018