あなたの人生をきっと豊かにする手紙社リスト。20回目となる音楽編は「冬の装い」をテーマに、山口大学教授の堀家敬嗣さんが選ぶ10曲と、手紙社の部員が選ぶ10曲を紹介します。今回も、まずは部員さんが選ぶ10曲を。その後いつものように堀家教授のテキスト、堀家教授が選ぶ10曲と続きます。クリスマスソングだけではなく、我が国には、冬と寄り添う名曲がたくさんありますねぇ(冬のリヴィエラを聴きながら、この原稿を書いています)。
手紙舎部員の「冬を装う歌謡曲」10選リスト
1.〈サボテンの花〉チューリップ(1975)
作詞・作曲/財津和夫,編曲/チューリップ
ギターの温かなメロディーと、タイトルに『花』とあるので、てっきり春の歌と思いきや、『真冬の空の下に』と歌われているように、冬の季節を歌ったこの歌。さらにはこの明るい曲調からは想像できない、切ない別れの歌詞が印象的です。しかし、このメロディの温かさや明るさが、別れを悔やみ、悲しみ、その思い出だけにすがるのではなく、『何かをみつけて生きよう』『何かを信じて生きてゆこう』と未来への一歩を踏み出す、そういう希望にも満ちた歌なのだなと感じる、大好きな曲です。
(しまえなが)
2.〈冬のリヴィエラ〉森進一(1982)
作詞/松本隆,作曲/大瀧詠一,編曲/前田憲男
冬を「装う」歌……ということで1番に浮かんだのが森進一さんの「冬のリビヴィエラ」。作曲は大瀧詠一さん。独特の軽快なリズムと流れがとても心地よく「おふくろさん」くらいしか知らなかった私の「森さん=こってり演歌」のイメージを 良い意味で裏切られた曲です。
「リヴィエラ」とは、イタリアの北西の海岸あたりとの事。タイトルから既に、ちょっと厳しくも素敵な風景の冬のイメージが浮かんできます。そして曲を通して、1組のカップルのドラマが描かれていきます。一歩間違えると、ドロドロしたドラマになりそうな男女の別れが「おしゃれな大人の恋の別れ」に! 最初のストーリー。「泣いたら窓辺のラジオでもつけて陽気なうたでもきかせてやれよ」。そんなことじゃ立ち直れないだろうに……でも男も彼女も明るくユーモアに溢れた性格の2人なんでしょう。あえて、なんともライトなセリフを入れてくるところがウィットに富んでいます。
そして2章。「別れの気配をちゃんとよんでて」からはじまる一連のながれ。黙って旅立とうとする男に泣いてすがるわけでもなく、知らないふりをして、指輪とお酒の小瓶を荷物にしのばせる……それならきっと旅立つ時は、涙を堪えながらも、寝てるふりをしているだけだった? 彼女の素敵な人柄や、2人の今までの関係性が伝わる様なこの別れは、愛し合っていながらも何かしらの理由で、仕方ないものだったのだろう? そんな2人の楽しく愛に溢れて過ごした日々の歌詞には無いシーンまでもが、さわやかな大瀧メロディにのって次々と浮かんできます(あくまでも想像)。
主人公の男はアメリカの貨物船の船乗りなのでしょうか、冬の灰色の空の下、船のデッキで彼女を思い、彼女の大切さを痛感しながら(コートのボタンのくだり)1人黙って佇み船の姿が遠ざかって小さくなり、消えていく光景まで想像させてしまう……素敵な曲だと思います。
(kyon)
3.〈雪のクリスマス〉 ドリームズ・カム・トゥルー(1990)
作詞/吉田美和,作曲/吉田美和・中村正人,編曲/中村正人
公園のジャングルジムに細く積もった雪。その雪のふちどりがきれいねと、あなたと話したい。いっしょにこの夜を過ごしたい。大好きなあの人と特別な日を過ごしたい。会いたいけど会えない。でもいいの。会えないときは会えるときのことを楽しみにしながら、あの人のことをまた考えるから。でも本当はやっぱり会いたいです。だって今日はクリスマスだから!! ふぅ。英語バージョンのwinter songも日本語バージョンのこの歌もどちらも好き。あなたと出会えて幸せです。な、冬の歌。
(あっこ)
4.〈WHITE BREATH〉T.M.Revolution(1997)
作詞/井上秋緒,作曲・編曲/浅倉大介
曲に出会った子供の頃はMVの吹雪の中「上半身裸にジャケット+ネクタイ」がとても印象的で、冬と強風の日に思い出す曲でしたが、この冬、歌詞を読み返してみたら「冬のせいにして暖め合おう」とか、冬の大人の熱情的な歌詞と曲の疾走感に改めて気付かされました。
(龍姫)
5.〈お家へ帰ろう〉山崎まさよし(1998)
作詞・作曲/山崎将義,編曲/山崎将義・中村キタロー
ふゆの曲〜と、小野ちゃん(旦那)が数え上げた曲のなかで、わたしが唯一わかった曲です。それは知っている! とドヤ顔したらCMヒットソングだと教えられました。流行ってた曲はだいたい、「友だちが好きだった曲」でインプットされています。曲といっしょに友だちを思い出します。 (まっちゃん)
6.〈雪の華〉中島美嘉(2003)
作詞/Satomi,作曲・編曲/松本良喜
珠玉のラブソングだと思います。
♪風が冷たくなって
冬の匂いがした
そろそろこの街に
きみと近付ける奇跡がくる♪
って ところが 好きです
寒いからこそ
近づける
寒いけど寒くなーい
冬っていいやん 最高やん
マフラー一緒に巻いちゃったりして
それは 昭和や〜ん
こーとーしー最初のー雪の華をー♪
中島美嘉の儚げな世界観と
相まって 愛しさと切なさがいっぱいで
大好きな冬の曲です
(HAPPY 弥生)
7.〈冬の口笛〉スキマスイッチ(2004)
作詞・作曲/スキマスイッチ
スキマスイッチの郷愁のあるメロディと大橋さんの声がとても好きで、冬になると聴きたくなる一曲です。冬という季節だからこそ感じるお互いの存在。これからもたくさんの季節を2人で歩いていこうと決めた冬の日の景色が浮かんできます。また、music videoは、たくさんの季節を歩いてきたもう一つの2人の物語を感じて、胸がキュとなります。
(hidemi)
8.〈マカロニ〉Perfume(2008)
作詞・作曲・編曲/中田ヤスタカ
その昔行われた「PerfumeFES!」で、秦基博さんの弾き語りによるコラボレーション、そしてスガシカオさんはこの曲が好きとSNSで言っていて、実際に別の年のPerfumeFES!で3人と共演しているのを知りました。ミュージシャンの間で人気曲? 歌詞の内容は冬という言葉こそないものの、「見上げた空は高くて だんだん手は冷たいの」「大切なのはマカロニ ぐつぐつ溶けるスープ」など冬を感じさせます。PVのロケ地に地下駅になる前の東急東横線代官山駅付近や渋谷のスクランブル交差点が登場するなど、時代の移り変わりにちょっと切なくなったりして。三人がとにかく若い! 個人的には「最後の時がいつか来るならば それまでずっとキミを守りたい」の歌詞が好きです。
(れでぃけっと)
9.〈ソラニン〉ASIAN KUNG-FU GENERATION(2010)
作詞/浅野いにお,作曲/後藤正文,編曲/ASIAN KUNG-FU GENERATION
ご存じ、映画版「ソラニン」の主題歌。「寒い冬の冷えた缶コーヒーと 虹色の長いマフラーと 小走りで路地裏を抜けて思い出してみる」。 このフレーズだけで一冊分の小説を読んだのと同じ情景が浮かびます! 漫画ですが! もともとは作中で種田が自分のバンドのために作った歌。冬を装う歌。虹色のマフラーは芽衣子さんのでしょうか。冬は終わりの季節で寂しさと少しの温もりを感じます。
(田澤専務)
10.〈ニットの帽子〉Official髭男dism(2016)
作詞・作曲/藤原聡,編曲/Official髭男dism・松岡モトキ
Official髭男dismのインディーズ時代のアルバム収録曲。彼らにしてはゆったりめで、ジャズっぽい失恋ソングは耳に残ります。「ニットの帽子が今年も街に溢れたら 無意識に君を探してしまう癖も治るかな」。ニットの帽子が別れた彼女のイメージなのか、単に冬を表すアイテムのことなのか……吐く息の白さという歌詞、息遣いの聞こえる歌声が、寒い冬の雰囲気を作り、心も凍えるようで辛いと言っているよう。冬が好きだった彼女のことを思いながら、ニットの帽子のような暖かさが今届くところにないという切なさも感じます。
(はたの@館長)
冬を装う歌謡曲
コート
衣服の根本的な機能とは、寒さを凌ぐことにあります。夏の暑さはひとを裸体に近づけ、したがって私たちのもっとも動物的な相貌を露呈させますが、冬の寒さはひとを着ぶくれさせ、それゆえこのとき私たちはもっとも人間的な、つまりもっとも文化的な容姿を装うことになるわけです。
だから空気が冷めていくごとに、まずは暑い季節に剥きだしだった肌を覆い、次に生地の厚みを増やしたうえで、さらに衣服を重ねていくことが、着衣をめぐる冬支度なのです。
槇原敬之の〈冬がはじまるよ〉(1991)において、「僕」が「8月の君の誕生日」に「半袖と長袖のシャツを」あわせて「プレゼント」するとき、そこにはこれ以降も彼らが「一緒に過ごせる為の」希望的な配慮が「おまじない」として含蓄されています。やがて、なお肌寒さがつのれば「僕のセーターを貸してあげる」との予告も、衣服のそうした機能を指摘するものです。
長袖のシャツにセーターを、ジャケットを重ねていくとき、冬はそこまできています。ここにコートがはおられ、首にマフラーを巻きなどすれば、あたりはもう木枯らしに枯葉の舞って吐く息も白い初冬のころです。
もちろん、コートは、必ずしも防寒のためにだけ纏われるものではありません。たとえば朝丘雪路の〈雨がやんだら〉(1970)では、「あなた」は「濡れたコートで」部屋から「出て行」ってしまいます。この「コート」について、なかにし礼による歌詞のなかにはそれ以上の描写はありませんが、「濡れた」という形容のほか、「雨」に加えて「水」や「涙」の湿気が、それをレインコートへと誘導します。他方で、「南の窓」は「二度と開けない」まま「ブルーのカーテン」が「引」かれようとしており、まして「冷たい足音」や「濡れた躰」といった語句が、「わたし」が「ひとり」きりで「あなたのガウンを まとってねむ」らなければならない状況に、いっそうの寒気を吹き込みます。
寺尾聰が歌唱した〈ルビーの指環〉(1981)で、「貴方」が「衿を合わせ」る「ベージュのコート」もまた、その色をもって、重厚な防寒用の外套というよりはむしろ、もっと薄手のトレンチ・コートなどを想起させます。とはいえ、松本隆はここに「枯葉」や「さめた紅茶」、「日暮れの人波」といった、冬へと傾斜する晩秋を思わせる記号を嵌め込み、そのうえ「貴方」には「背中を丸め」させるのだから、いまや「くもり硝子」とは、単に不透明に加工されたすりガラスのことではなく、「風の街」の冷えた外気に晒された透明な窓の裏面で、暖かな屋内の蒸気に、湯気に白く曇った、まるで靄が圧縮され、平面的に結晶化したかのような結露のガラスのことかもしれません。事実、「俺」は、この「くもり硝子の向う」の「風の街」に「消えて」いく「貴方を見て」います。
ところで、〈ルビーの指環〉においては「ベージュのコート」の「衿」は「合わせ」られていましたが、歌謡曲は、コートについてより紋切り型の着用の仕方を提示します。
〈雪が降るまえに〉(1984)の遠藤京子は、「街路樹」が「冬の支度をし」た「街」で、「バスを降り」るやいなや、「コートの襟をたて」つつ「はやく家に帰」ろうとしています。渡辺美奈代の〈雪の帰り道〉(1986)の場合にも、「枯葉を敷きつめ」られた「この街」で、「泣きながら 帰る道」にあっては「コートの襟」が「立て」られずにいません。この作詞を担当した秋元康は、稲垣潤一に提供した〈ドラマチック・レイン〉(1982)においても、「コートの襟を立て」させていますが、なるほど「躰」が「冷え」てはいるものの、おそらくここでの「コート」とはレインコートのことでしょうか。
セーター
防寒用の外套を単なるレインコートと隔てる要素があるとすれば、それは素材にちがいありません。
羊毛や皮革といった動物由来の素材によるコートを着ることとは、いわば彼らの外殻を借りて人間が余計に皮膚や体毛を重ねることによって、その動物的な相貌を防寒や保温といった機能に収斂させて文化化することです。
〈LOVE 抱きしめたい〉(1978)は沢田研二の楽曲です。「みぞれ」どころか「涙」さえが「暗くさびしく凍ら」んとする「灰色の冬の街」で、「帰る」べき「家」のある「あなた」は、「ヒールの音だけ」を「コツコツ響」かせながら「風に吹かれ」て「出て行」きます。このとき彼女は、「袖も通さ」ないまま「皮のコート」をはおっていました。そのさまは、さながら〈勝手にしやがれ〉(1977)の光景を継承したハードボイルド調の続編であるようにも感じられます。
要するに、阿久悠による歌詞は、彼のダンディズムが沢田研二に期待した世界観を完遂するために、女性の登場人物にもこれへの従属を強いた結果であるといえます。
それとは逆に、〈冬のリヴィエラ〉(1982)の場合には、「彼女」が自分には「過ぎた女」だとして「俺」の側が「ホテル」から去り、「アメリカの貨物船」で「冬のリヴィエラ」の「港を出」ていこうとしているところです。ここで松本隆は、「ボタンひとつ」が「とれかけて」いて「サマにならない」ような「皮のコート」を彼に着せ、どこか格好のつかない風情を預けています。
この風情は、たとえば「一張羅のスーツ」が「流石に決まっ」て「春のウィンドウに映」る鈴木茂の〈100ワットの恋人〉(1975)において、「わざと五分も待ち合わせ遅れてった」のに、さらに「きみ」に「二十五分も」超過して「待た」されたときの格好つかなさと同質のものです。
のみならず、そこでの松本隆は、「一張羅のスーツ」の「ぼく」に対して彼女に「ショーケンがどんな素敵か」を「頬そめてウットリ」と、けれど「マシンガンのよう」な「早口」で「話」させています。そのうえで、「別れる間ぎわに」彼女は、「一張羅のスーツ」の彼に背伸びを諌めるかのように「セーター」を「手渡」すのです。生活感から遊離してかまえた格好よさに自惚れる男性の側の認識のこうした脱臼は、この「セーター」が「編んでる内に春になっ」てしまったものであることのうちに、とりわけ顕著に示されています。
この、屈託なく肩肘はらない「きみ」の「明るさ」こそが、「ぼく」が「100ワットの電球」に喩えて好感する当のものです。
ところが、阿久悠は、〈北の宿から〉(1975)で「日毎寒さがつのる」なか、「着てはもらえぬ」と知っていながら、「女ごころの未練」ゆえに主人公に「セーター」を「編」ませています。
「吹雪まじりに汽車の音」が「すすり泣くよにきこえ」たり、ついには「死んでもいい」ような心持ちになるかたわらで、怨嗟にも似た彼女のこの「未練」は、なにより「寒さこらえて」まで遂行しつつあるひと編みごとのその行為の入念さに重々しく込められているはずです。困難に耐え、不遇を忍ぶ彼女のこうした姿勢は、まぎれもなく、この作詞家の標榜するダンディズムと背中あわせに女性に強いられた社会的な性差そのものです。
彼女がそのような境遇に積極的に加担しているわけではないでしょう。そうではなく、これは、あくまでも女性をそのような境遇に加担させうる立場に自身の価値を同定する、ある種の支配的な構造への男性の側の耽溺にちがいないのです。もちろんそれは幻想にすぎません。
チューリップによる〈サボテンの花〉(1975)は、中心的なメンバーである財津和夫の作詞です。ここで「君」は、なにがしかの「小さな出来事」ゆえに「傷つ」き、「真冬の空の下」へと「部屋をとびだし」ていきます。それは「雪」が「たえまなくふりそそ」いでいる寒空です。
「思い出つまったこの部屋」には、いま、「洗いかけの洗濯物」とともに「編みかけていた手袋」が残されたままです。これらの作業のいずれもが、このように行為の過程で中断され、途中で放棄されるとき、にわかにその奉仕的な側面を露呈させることになります。
白さ
〈100ワットの恋人〉と〈北の宿から〉、および〈サボテンの花〉は、すべて同じ年に発表されています。
ところが、もはや男女の関係性における冬の編みものをめぐる意味作用について、とりわけ男性の側が鈍感でいるわけにはいかない時代です。たとえばホフディランならば、自ら「マフラーをよろしく」と願いでるかもしれません。〈マフラーをよろしく〉(1996)にあっては、「ボク」はそれを「期待してる」一方で「期待しないで待って」います。
「ちゃんと心を込めなきゃダメ」で、「手抜きは許されない」とは強弁するものの、「できれば」でいいから「ボクの名前も」どこかに「入れてほしい」ことは、「作者のイニシャル」を「入れたらどうか」という提案とともに遠慮がちに希望されます。「キミのウデじゃ無理かもね」などと憎まれ口で挑発しながら、「徹夜をしてまで作ってほしくはな」く、また「カゼをひいてまで作ってほしく」もなく、つまるところ「あんまり無理して作ってほしくはない」のだから、ここで「寒さにふるえて待ってる」のは、ほかでもなく「作って」もらう彼のほうです。
「ボク」は、そこで費やされる労力や時間を勘案した場合に「マフラー」を手編みすることが要請する一方的な奉仕と、それを直視させない恋愛の幻惑を前提に正当化される願望とのあいだで、慎重な言葉づかいのもと、いかにも微妙な按配を推しはかっています。
実際に、ここではセーターでなくあくまでも手編みの「マフラーをよろしく」頼むことのうちに、彼の態度の絶妙さが表現されています。この際、彼女の手編みによるものであれば「きっと今年の冬はいつもより」確実に「暖かくなりそう」である以上、もはやその形態など、セーターであれ手袋であれ、なんであってもかまわないはずです。
換言すれば、「キミのウデ」や「徹夜」や「カゼ」などの「無理」な事情を考慮するまでもなく、手編みのセーターは彼にとっておそらく想いが重すぎるのです。〈北の宿から〉の「着てはもらえぬセーター」はもちろん、「編んでる内に春になっ」てしまった〈100ワットの恋人〉の「手渡されたセーター」の想いでさえ、「ボク」には重すぎて背負うことができません。というのも、そこには「死ん」だり「生き」たりといった人生が編み込まれることが不可避だからです。
Official髭男dismの〈ニットの帽子〉(2016)は、「ニット」の語用により、編み目に込められる意味内容を極限まで軽減してみせます。ここではすでに「ニットの帽子」は、手編みかどうかはもちろん、「君」のものか「僕」のものかさえも詳らかにはされません。それどころか、それは「今年も街に溢れ」るような、交換可能な匿名の量産品でこと足りるものです。「忘れられ」ようもない「あの冬」の「思い出」を「僕」が脳裏に「すぐに浮か」べるそのためには、かけがえのない「君」だの「僕」だのといった固有の署名は必要ないのです。
〈キングサーモンのいる島〉(1972)の「手袋」と「帽子」は、その素材や製法を明らかに謳っていないにもかかわらず、その「上から」も「寒さ」が「浸み透る」ことから、あたかも編みものであるかのように思えてきます。
このほか「波の上」や「橋の上」、「夜のテーブルの上」など、六文銭によるこの楽曲がとにかく「上」に頓着するのは、やはりこれが「キングサーモン」が「川面を跳ね」る「オホーツクの果て」、すなわち日本の国土の北限あたりを地図上の上限に指示するところだからかもしれません。「白い息」や「氷の夜」、そしていうまでもなく、風に舞う雪。歌謡曲は、しばしば冬の装いをこうして北方や北国に関連づけます。
同時にそれは、白の季節でもあります。「キングサーモンの熱いステーキ」を「食べた」くなるとき、それは、山崎まさよしの〈お家へ帰ろう〉(1998)が説くように「お家」で「シチューが待ってる」季節であり、この「シチュー」や、Perfumeの〈マカロニ〉(2008)にあって「マカロニ」とその「ぐつぐつ溶けるスープ」に白さを感覚するのもまた、湯気を纏った食事が冬の白さを装うからにちがいありません。
堀家教授による、私の「冬の装い」10選リスト
1.〈スワンの涙〉オックス(1968)
作詞/橋本淳,作曲・編曲/筒美京平
舞台は「スワン」のいる「遠い北国の湖」。GS得意のメルヒェン調の世界観に「教会」の「鐘」や「ブラック・コーヒー」といった聴覚や味覚に対する異国情緒をまぶしながら、「君の素敵な ブラック・コート」が纏われる。「sha・la・la・la」のコーラスにおけるⅰm–ⅳ–ⅰmのメロディック・マイナー的なコード進行の新鮮さが、この楽曲を単なる通俗的な短調の歌謡曲の枠に留めておかない。その意味では、この楽曲から着想されたものと思しきサザンオールスターズの〈そんなヒロシに騙されて〉のほうがよほど古めかしいといえる。
2.〈キングサーモンのいる島〉六文銭(1972)
作詞・作曲/及川恒平
ここでも舞台は北国、「オホーツクの果て」の「小さな島」に設定されている。「白い息」の「氷の夜」には、誰もが「手袋や 帽子の上から浸み透」ってくる「寒さ」に凍てつかずにはいないだろう。カントリー・ロックにおける郷土性とでもいうべき変数が東京に指定されればはっぴいえんどの音楽となる一方で、たとえばそれが寒さのあまり湿気のほとんど凍るオホーツクで響けばたちまち六文銭のものとなる事実は、ベルウッドの三浦光紀がめざした新しい日本の大衆音楽のかたちのなんたるかを大いに示唆するところである。《キングサーモンのいる島》に収録。
3.〈100ワットの恋人〉鈴木茂(1975)
作詞/松本隆,作曲・編曲/鈴木茂
「着てはもらえぬセーターを/寒さこらえて編んで」みせる〈北の宿から〉が阿久悠の作詞により都はるみの歌唱で発表されたのと同年、鈴木茂は、はじめてのソロ・アルバム《BAND WAGON》を発表している。ここに収録された、松本隆の作詞による〈100ワットの恋人〉では、「編んでる内に春になっ」てしまったものの、「別れる間ぎわに」ようやく「手渡されたセーター」が、「きみ」と「ぼく」とのあいだに新しい関係性の行方を告げる。そしてそれは、街の「ウィンドウ」に「映」る「流石にきまった一張羅のスーツ」姿との対比において、「100ワット電球」のようなある柔らかさや優しさ、温もりをも表現するだろう。
4.〈赤い絆(レッド・センセーション)〉山口百恵(1977)
作詞/松本隆,作曲/平尾昌晃,編曲/川口真
ここには凍てつくような寒さや冷たさはおろか、季節感もほとんど維持されていない。なるほど「私」は、「真っ赤なコート」に「涙をかくし」てもいる。しかしながら、ここで重要なのは「コート」ではなく、明らかにその色、すなわち「赤」のほうだ。「あなたを愛した証しの色」であるそれは、「二人を引き裂く愛の稲妻」となって「私の背中を赤くつらぬ」き、また「私の心に火を走ら」せる「夕陽の赤」でもある。そうした「レッド・センセーション」を包摂する器、それこそが「コート」にほかならない。個人的には山口百恵の最高傑作だと思う。
5.〈I THINK SO〉岩崎良美(1980) 作詞/岡田冨美子,作曲/網倉一也,編曲/船山基紀
「あなた」がここで「コートの衿を立てて」いるのは、おそらく寒さのせいではない。確かにその「街角」を「木枯らし」は「抜け」ていくものの、あくまでもそれは「熱い」からである。つまり彼は、「少しキザ」な演出として「コートの衿を立てて」みせている。ミニー・リパートンの〈Lovin’ You〉をディスコ調に仕立てた歌謡曲といった趣きのこの楽曲にあっても、網倉一也の才覚は光る。CBSソニーの“ジャパコン”4人組のうち、もっとも歌謡曲と親和性が高かったメロディ・メイカーは、まちがいなく彼だろう。
6.〈December Morning〉松田聖子(1981)
作詞/松本隆,作曲/財津和夫,編曲/鈴木茂
名盤《風立ちぬ》の最後に収録。一面の「銀世界」に「シュプール」と「冬」の「二人」の「想い出」を「書き込む」とき、「あなた」の「目印」となる「真っ赤なジャケット」とは、「スキー」のためのそれであるはずだ。スポーツやアウトドア用の衣料の意匠が洗練され、衒いなく街着に使用されるに至ったこんにちとは異なり、このころはまだメーカーも、防寒や防水、あるいは耐久性といった機能ばかりを重視していた。たとえばここでの「真っ赤な」色もまた、吹雪や雪崩に遭難した際の命の最後のよすがであり、事実、「私」が「テラス」から遠目で「あなた」と「気が付」くのはこの色のゆえである。だからそのぶん、たとえ意匠的には野暮ったくとも、「風花」程度では濡れも凍えもしない快適さを雪山でも担保し、街角では味わうことのできない経験を「あなた」のみならず「淋しいロッジ」の「私」にも保証してくれるのである。そして「雪」が山の気配を吸音して明けた冬の「目覚め」のいかにも静かな朝を、穏やかに、慎ましく、この楽曲は描く。
7.〈Happy Man〉佐野元春(1982)
作詞・作曲・編曲/佐野元春
「イタリアン・シャツ」に「カシミアのマフラー」が巻かれる「夜」の「冷た」さは、その外気のものであるとともに、「タフでクール」な「I」の性格に負うところも、さらには「アスピリン」を「片手」から離せない彼の体調に負うところ、「ジェットマシーン」のように「夜」を駆け抜けるときに発生する疾風に負うところもあるだろう。実際に、この楽曲の魅力はなによりその疾走感にある。アルバム《SOMEDAY》に収録。
8.〈風の変わる頃〉堀ちえみ(1983)
作詞/売野雅勇,作曲・編曲/白井良明
山口百恵のような物語性にも、松田聖子のような華やかさにも縁がなく、かといって中森明菜のような歌唱力に恵まれたわけでもない、いわばなにひとつ秀でるところのなかった単なるひとりの、ことによると他の誰であってもかまわなかった任意の女性アイドルによる、にもかかわらずこの時期の彼女以外には実現できなかった、歌謡曲の歴史におけるひとつの奇跡的な達成となる傑作曲。いくぶん刺激的にして挑発的な瞬間はあれ、これも結局は陳腐な言葉の使い手の域を超えられなかった売野雅勇の、ただしきわめて例外的にして、それゆえ彼の最良の仕事でもある。「唇に風が寒い」ような「季節の変わり目の雨」の日に、「コートのポケットで 無意識のうち」に「外」される「手袋」。裸になった「手」は、けれどいまだ躊躇の「ポケット」の温もりのなかにある。《雪のコンチェルト》に収録。
9.〈フィヨルドの少女〉大滝詠一(1985)
作詞/松本隆,作曲/大瀧詠一
太田裕美に提供した〈さらばシベリア鉄道〉や森進一に提供した〈冬のリヴィエラ〉などがあるとはいえ、大瀧詠一のイメージが、強靭に夏と癒着した《A LONG VACATION》から不可分なのは仕方ない。それでもなお、はっぴいえんど時代の〈12月の雨の日〉も〈春よ来い〉も冬の楽曲であったうえ、そもそも彼は宮沢賢治と同郷の北国の生まれだった。〈フィヨルドの少女〉は、身体の芯から凍てつかせる大地の壮大さを前田憲男のストリングスによる小林旭の〈熱き心に〉に委ねて、「氷河がきらめ」こうとも、「雪の汽車で消え」ようとも、また「吹雪」やら「心にささった氷の/破片」をもものともしないポップさで、あくまでも「童話のような街」に「昔のままの/黒いコート着」た幻影を追いつづける。
10.〈雪の帰り道〉渡辺美奈代(1986)
作詞/秋元康,作曲・編曲/後藤次利
「真冬の北の風に」対して「コートの襟を立てて」る設定を含め、ここで歌詞の言葉を費やして描写される光景はいかにも凡庸である。かろうじて、「雪」を「終った恋」の「フワフワ……」と「ちぎれて」舞うさまに見立てる最後のフレーズに限り、どれほどか情趣が感じられるばかりだ。にもかかわらず、言語表現に関するそうした次元とはおよそ無関係に響くとき、私たちは歌謡曲と邂逅する。
番外.〈青い花火〉浜田朱里(1981)
作詞/三浦徳子,作曲・編曲/馬飼野康二
松田聖子や岩崎良美と同期デビューにして、一度は山口百恵の“赤い”シリーズを継承した浜田朱里だったが、〈青い花火〉はそれへの意趣がえしか、それとも〈青い珊瑚礁〉への追従か。声量の豊かさを前提とした中音域のふくよかさと高音域の抜けのよさは、しかしいかんせん反動的なプロデュース体制や楽曲それ自体の古臭さに埋没してしまった。ここには「黒いコートのえり」を「両手で押さえ」た「私」がいる。
文:堀家敬嗣(山口大学国際総合科学部教授)
興味の中心は「湘南」。大学入学のため上京し、のちの手紙社社長と出会って35年。そのころから転々と「湘南」各地に居住。職に就き、いったん「湘南」を離れるも、なぜか手紙社設立と機を合わせるように、再び「湘南」に。以後、時代をさきどる二拠点生活に突入。いつもイメージの正体について思案中。